研究者志望であることは、果たして罪なのであろうか

博士と後ろ指

 ある痛ましい事件が、WEB上を賑わせている。

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 私は本事件の詳細については知らず、研究分野も異なるのでここでは詳しく立ち入らない。個人的な感情で物を言うのであれば、優秀な研究者の方が自ら命を絶ったことについては、非常に痛ましく、かつ人類の知の損失であると考える。と同時に、そこに絡み合っている様々な要因――特に学問分野・世代・ジェンダー間の格差――は、部外者による容易な価値判断を拒否するものでもあるように思えてならない。

 むしろ私が気になっているのは、こうした事件が起きるたびに生じるある種のニヒルな態度だ。つまり、博士になるなんてのは「破滅」だというたぐいの。

首都圏大学非常勤講師組合の幹部は「博士課程まで進んでしまうと、破滅の道。人材がドブに捨てられている」と語る。

 ここにはいくつかの論点が内在している。第一に、多種多様な属性を持つ「博士」という社会的集団が一様に「破滅」であると語られているということである。第二に、「人材がドブに捨てられている」という言葉にもあるように、そうした問題が個々人の求める人生の実現不可能性ではなく、「人材」の活用という社会の効率性の尺度によってのみ語られているということである。だからこそ、こうした記事においては「博士の社会進出」や「民間企業の登用」などがリンクに張られ、問題化される。つまりそこで議論されているのは、「博士」という資格が賃金や社会的地位へと跳ね返っていないということなのだ。

 私が問題化し、論じてみたいのは、こうした語りの構造である。言い換えるのならば、なぜ博士という「社会問題」を語るにあたって、「経済的豊かさ」の充足不可能性のみがことさらに語られうるのか、そしてその語りの裏に隠れている問題は、果たして取り上げるに値しないものなのかを、ここでは論じてみてみるとしたい。

 もちろん、こうした論点の提示に対し、反発もあり得るであろう。まず、多くの研究者志望が、決して裕福な生活をしていないことは明らかである。そのため、「経済的豊かさ」を疑問符に付すという態度そのものが、ある種のプチブル的振る舞いであるという非難は免れえまい。これについては個人的な体験談を通じて抗弁するが、ここで言いたいのは「経済的豊かさ」を論じることが問題だということではなく、誰しもが理解可能な「経済的豊かさ」のみに議論が回収されていくことが問題だ、ということである。言い換えるのならば、「経済的豊かさ」の確保のみを目指す議論は、決して研究者志望の人間を救うものではないであろう、というのが仮の結論としてある。

 次に、なぜ「人材活用」を議論する態度が問題化されねばならないのか、といった反発も考えられる。多くの大学院生には一定程度の公費が落ちているわけであり、そもそも文科省の大学院拡充政策が高度人材の増加を目指していたのだから、それを論じないのはおかしいだろうという批判である。これについても、本論はマクロな社会政策として、そうした人材活用をめぐる議論が必要であるということを否定するものではない。更に言うのならば、「博士の社会進出」や「民間企業の登用」そのものを否定するものでもない。そうではなく、そうした施策が行われさえすれば全てがバラ色となるという「筋書き」こそが、ここでは議論の対象となっている。これは最終的には、経済システムの拡充というマクロな社会目標が、ミクロな個人の生活目標に侵入し、いつしかすり替わっていくという(ある種批判理論において繰り返されてきた紋切り型の)問題の批判へとつながっていくものである。

「大学」と「民間」 

 修士時代、ある先生が授業中にある愚痴を漏らしていた。 いわく、科研費の年度内の使い切りにおいて、事務との折衝がきわめてややこしく、消耗しているということであった。この問題については、様々なところで見聞きしていたので、疑うべきもない。そして先生はこういったのであった。

まあ大学だからね。民間とは違うからね。

 そのときは、そういうものかと思った。そこで語られている「民間」とは、目の前の非効率な官僚性システムとはかけ離れた、よりよいものなのであると。

 さて、その後私は紆余曲折の末、修士課程修了後、民間企業への就職を決めた。そこで見聞きしたこと、あるいは職務内容などは、ここでは問題としない。ただ言えることは、その会社の経理システムは、大学の科研費事務よりも遥かに複雑であったということだ。私は、数十頁もあるマニュアル――これがまたまったくMECEじゃないのだが――にない事例に遭遇した途端、異なるビルにいる経理の人間と電話で一時間やり取りをした上で書類を作成し、多数の稟議を回した上で、さらにその後1週間後に別の責任者から全く違う書類提出を求められるといった業務を繰り返した。

 もちろん、そうでない会社もあるであろう。私が新卒就職した会社は、決して新進気鋭の、キラキラしたエリート会社というわけではなかった。ここで述べたいのは、「民間」という言葉に含まれた多様性である。びっくりするほどの、それこそ大学という世界を遥かに超えた非効率性が、「民間」の中には内在していることがある。

 何を当たり前のことを言っているのだという指摘があるであろう。むろん、私はこのことが極めて陳腐な言明であることは承知している。ここで言いたいのは、にもかかわらず私たちは「大学」と「民間」を異なるカテゴリーとして対置させ、あたかも片方からもう片方へと物事を移せば問題が解決されると考えがちだということ、そうした考えが、現在の「博士活用」をめぐる議論の根幹にあるということである。

「大人」は判ってくれない

 ではそのことの何が問題なのか?それは、こうした態度を取ることによって、「経済的豊かさ」へと問題を縮減することが可能になっているということである。言い換えるのならば、そこでは「研究職の確保」という問題が、「終身雇用職の確保」という問題へとすり替わっているのだ。

 それの何が問題なのか、という議論も有りうるだろう。誰しも平和で、安定した、一定程度の賃金を得られ、豊かな家族生活をおくる権利があるではないかと。もちろん私もそのことは否定しない。ここで問題となっているのは、それのみへの問題の縮減であり、その優先順位付けである。

 またもや個人的体験談から始めよう。仕事にもなれてきた新卒一年目の終わり、私はある飲み会へと参加した。そこでひょんなことから、休日は何をしているのか、という話になった。ありがちな話であろう。

 私はそのとき、たまたま一本目の査読論文がアクセプトされ舞い上がっていた時期であったので、率直に自分の休日の過ごし方を語った。まあだいたい10時頃に起きて、夜まで研究を進めますね。研究?まあ歴史というか、社会学というか思想史というか、とりあえず商業の歴史について調べて、論文を書いてます。そんなところである。相手方はこう返した。

へえ!そんな金にもならないことよくやるね!

 さて、彼を責めるべきであろうか。当然その時は憤懣やるかたなかったわけであるが、今思えばその態度は納得できるところがある。まず、一般的なホワイトカラー職たるもの、日中は会議以外はひたすらPCの前に座って、カタカタ書類やパワポを作っているわけである。その代価として、私たち「大人」は少なからぬ賃金を得ているのであり、その賃金によって一人前の「大人」は家族を養ったり、マカオにカジノに行ったり、女性を囲ったりするのである*1。にもかかわらず、目の前にいるブスッとした男は、その金をロクにも使わず”金ももらっていないのに”仕事みたいなことを休日にもしている。そりゃあ顔も暗くなるよな。といった具合であろう。ついでに言えば、その飲み会は2次会で、終電は過ぎ去ろうとしていた。情状酌量の余地は大いにある。

 さて、私は当時も、そして今も変わらず休日に研究をしている。しかしこれは、果たしてなんのためにやっているのだろうか。むろんそれは、将来のアカポスがかかっているからであり、中期的に言えば博論を書かねば就職もおぼつかないからであり、短期的に言えば約束している原稿があるからである。だが、本質的に研究とはある種の喜び、新たな発見を見出す喜びのためにやっているのであって、社会的成功のためにやっているわけではない。その意味において、私にとって研究を続けることの意味は、賃金の獲得にあるのではない。私は、研究を続けることを経済的にも心理的にも許してくれる環境を求めており、その過程の中でアカデミアのポストを望んでいるわけだが、それは賃金の獲得・上昇に主眼があるわけではないわけだ。

 独身男の甘ったれた、それこそ「子ども」の意見だという向きもあるだろう。だが、私はそれでもなお「『大人』は判ってくれない」と述べたい。というのも、まさにこの理解の不一致こそが、本質的に今の博士、特に文系博士をめぐる議論のズレを生んでいるとしか思えないからである。

私たちが求めるのは、「研究」をする自由である

 しかしながら、なぜことさらに博士だけこうした言説の磁場に巻き込まれるのだろうか。結局の所私にとっての研究とは、お笑い芸人志望のコント練習、バンドマンのバンド練習みたいなものなのであって、その流れで行くのならばそれはある種の自己満足の範疇にくくられても良いようなものである。にもかかわらず博士の生活困窮はニュース記事になり、高円寺のバンドマンの生活困窮は無視される。そういう世界に私たちは生きている。

 もちろんこれは、現代の先進諸国において、高等教育と研究が重視されているからに他ならない。研究というものに国家や社会が一定程度の価値を認めているがゆえに、それは他のワークと別様のものと捉えられており、それゆえにそれに専念した人間が不幸となるのは「問題」であると捉えられる。

 この事それ自体は、私にとって悪いことではない。だいたい、今自分がもらっている特別研究員奨励費というやつだって、会社員としてみたらともかく、給付金としてみるのならば破格である。こうした制度が不十分とはいえ整備されているということは、少なくとも研究が好きな人間にとっては僥倖というべきであろう。文科省から金が出るから会社を辞めるといえば納得してもらえるが、パントマイムで食っていくと宣言すれば心配されるのがこの社会である。

 だが、こうした制度的保護は同時に、上記したような認識の誤解に基づいた問題を生むことにもなる。すなわち、経済的豊かさとライフコースの安定という一般的な生活目標とアカデミックキャリアパスが同一視され、その結果「研究」の価値が社会にせよ個人にせよ「役に立つかどうか」という点にのみ縮減されていくという問題である。繰り返すが、少なくとも多くの博士課程院生にとって、求められているものは研究を続けることの自由なのであって、経済的豊かさとライフコースの安定という問題はその前提条件に過ぎない。だが、まさに研究が仕事と同一視されるとき、この構造は理解されず、等閑視されてしまうのである。「民間」に行けば、悲惨なポスドクの処遇から開放されて、あなたは幸せじゃないですか?賃金だって、労働条件だって良くなるでしょう?*2そうした問いかけは、まさにこの問題をカッコに入れることで成立している。そしてこの問いかけは、高度人材の活用という社会目標と合わさるとき、更に強化されていってしまう。眼の前の「民間」は、私たちにとっての「研究」の意味なぞ全く判ってないかもしれないのに*3

 だからこそ、不謹慎かもしれないし、甘ったれかもしれないし、そんなことどうやったら可能なんだと怒られるかもしれないが、あえて私は以下のことを主張したい。私たちが求めるのは、「研究」をする自由であり、その中には経済的安定もさることながら、「研究」の独立した価値を認める社会的環境も入っているのだと。言い換えるのならば、私は研究者志望であり、「研究」が心の底から好きであることを隠さずに済む社会、博士に進むことが「破滅」だとシニカルに語られることがない社会の実現を、心から望むものである*4

  

*1:この例示が極めてマスキュリンなことの意味については、ノーコメントとさせていただきたい

*2:民間企業において、ポスドク以下の境遇も往々にしてあることは置いておく

*3:こうした議論が、おそらく特定の分野に偏ったものであるということは承知している。少なくとも私の研究分野より、社会一般の価値判断とのすり合わせが容易な研究分野は多くあるからだ。そうした研究分野の研究を行う人にとっては、別に現状は問題とならない可能性が高く、事実そうした観点から民間就職を勧める声も多い。ここで試みているのは、そうした掬い上げが現状では困難な分野もあるという、ある種の異議申し立てである

*4:さらに言い換えるのならば、ここで求められているのは一般的なアカデミックキャリアパスから脱落しても研究を続けるということを容認する社会であり、それを認める就労環境がある社会だということである。だが、この社会の実現は、研究の価値が一般的な生活目標と重ね合わされた社会目標によって判断されればされるほど、難しいものとなるであろう。趣味で折り紙を折る人間が居たとしても、趣味で会議向けの資料を作る人が居ないように、そうした社会においてアカデミックキャリアパスからの脱落は研究者としての死を意味するからだ