アレ★clubが発行する『アレ』vol.7に寄稿しました

*『アレ』の刊行番号を誤記しておりました。深くお詫び申し上げます(2019/11/27)。

査読論文に書けないことをいかにして書くか、そしてそれに意味はあるのか

標記の通り、アレ★club発行の『アレ』vol.7に「『委託社会』の存立構造――政策コンサルタントエートス分析から」を寄稿しました。一般書店やhontoでも購入できるようですので、皆様もしよろしければご購入検討ください。

 

さて、大学院生というものは、一般に査読論文を書く生き物とされています。最終的に博士論文を仕上げるために、ですね。そうなると、こういう同人誌ーーとはいえ本雑誌は一般書店で流通してますし、編集規模だけ見れば中小出版社と変わらないなというのがお付き合いした所感でしたが*1ーーに寄稿する意味って、何なのでしょうか。本記事はこれへの回答であり、言い換えるのならば、「なぜこの大事な時期に、一見『お遊び』に見えることをお前はしたのか」という問いに対し、回答を残しておこうという意図があります。

査読論文のスタイル

査読雑誌に投稿したかたであればわかるかと思いますが、査読論文には作法があります。それは、単に社会学評論スタイルガイドに従えばよいというものではありません。まず、先行研究に即した問いを発し、それを解決可能な問題に縮減し、その解決法を図示し、それに即して具体的な議論を行わなければなりません。これは別に私のやっているような歴史学的な社会学研究においても例外ではなくーーむしろその自由性の高いスタイルにより、一層このことは意識しなければならないように感じますーー、言い方を選ばないのであれば自分の調べたことを一定の「カタ」にはめ込む作業というのが、個人的な査読論文執筆の所感です。

もちろんこのことにはいい面もあります。というのも、このようにフォーマットが規定されることによって、リーダビリティが上がるからです。ポエムはうまい人が書くならともかく、下手くそが書いたそれは、いかに良いことが書いてあっても読むに堪えません。そのことを考えるならば、査読論文というフォーマットはアカデミアの発展のために必要不可欠なものと言えるでしょう。

しかしながら、同時にこのことは書ける対象が著しく狭まることを意味します。当たり前ですが、文字数の規定がある以上、大きなテーマを掲げることはできません。その時数で回収可能な小さなテーマに問題関心を分割しなければなりません。しかしながら、この作業は典型的な要素還元主義でして、実際には難しいところがある、というのが正直なところです(小さなテーマを集合させても大きなテーマほどに魅力ある問いにならない。結果的にトリビアルなものとなる)。もちろんそれはお前が下手くそだからだ、という回答もあるでしょうが、同時にこれは抱えているテーマにもよるなというのが、私の所感です。私の例で言えば、なぜ日本における「消費者」概念の変遷を研究すべきなのかを説明できたとしても、なぜ1930年代の消費組合運動の分析をしなければならないのかは、その対象からだけだと説明しづらいということです。

「書けないこと」を書くこと

そして査読論文にはもう一つの制約があります。それは、「事実」を書かなければならないということです。何を当たり前のことを、といわれるかもしれません。しかしこれが時として困難な問いを提示します。

たとえば今回、私は「政策コンサルタント」と呼ばれうる職種――私がかつて行っていた業務――の「エートス」を分析することを通じて、現代社会においてビジネスパーソンが繰り出す「責任」をめぐる説明、ないしは「能力」に対する価値判断を批判的に理解することを試みました。ですので、分析のスタイルとしてはいわゆる「エスノグラフィ」に近い手法を取っています。

しかしながら、一方で私は別にエスノグラフィをするために職場にいたわけではないですし、ノートを取っていたわけでもありません。当然秘密保持契約もあります。ですから、一般的な論文で見られるような手法、すなわちいつ頃の調査結果で、ちゃんと内諾を得ていて、文字起こした言葉には裏付けがあって、という形はとれないわけです。

さらにいうのならば、こうした方法論的問題は同時に書くべき対象の制限をも意味します。すなわち、私は記述の対象やその問題を特定の個人や組織に回収させたくはなかったのです。エートス」という一種古臭い単語を用いたのは、こうした対象設定に起因しています。言い換えるのならば、私が書きたかったのは特定の個人に立脚したミクロコスモスとしての企業社会のフィールドワーク結果ではなく、むしろそうした個人や企業には回収されえない、「コンサルタント」という職種に--あるいはホワイトカラー層に--付き物の心理構造であり、そしてそうした職種に頼らざるを得ない現代社会の病理の分析だったのです。

ですから、私は今回の寄稿文にて、本稿のエピソードを「事後的に再構成し、寓意的にまとめたもの」であると明言しています。この点を踏まえるならば、本稿の議論は査読論文としては「論外」であるといえるでしょう。それは「事実」ではないからです。取り上げられたエピソードは私が経験した複数のエピソードをまぜこぜにしたものであり、発話者の人物像は複数人から拝借したものであり、さらにエピソードの具体的な内容については完全に捨象しています。ですから、本稿を読んでも私が一体どういう業務をしていたのか、どういうプロジェクトをやっていたのかについてはおそらく良くわからないでしょう。しかしそれこそが本稿の主意であり、私が目指したのはそうした完全な捨象によってコンサルタントという職種に共通する一種の「やるせなさ」を強調した形で記述することでした。更に言うならばグレーバーが言うところの「全面的官僚制」とは、一部の政策コンサルタント集団に見られる現象ではなく、その語義通り全面化していることを主張するためには、エピソードのディティールはできるだけ透明化させなければならなかったのです。

論文と評論のあいだ:あるいはなぜ私たちは査読論文というフォーマットにとらわれるべきでないのかについて

その意味において、本稿はあくまでも現代社会に対する「評論」であって、「論文」――少なくとも査読論文のフォーマット――ではないでしょう。であるならば、私がこれを書いた意味とは何だったのでしょうか。よくあるありがちな二分法、すなわち「業績主義」と「自己実現主義」以外の道からこのことを説明することで、当初挙げた問に答えることとしましょう。

まず、私はまだ学者として「半人前」であるということを前提としましょう。ではなぜ「半人前」は論文以外を書くべきでないとされるのでしょうか。それは、まだ彼が「一人前」でないがゆえに、社会を分析し解説する能力に長けていないから、にもかかわらずそれによってちやほやされることによって、折角得かけた研究能力をふいにしかねないから、であると解釈できましょう。すなわち、問題は「シロウト」が適当なことをぶっこくというところに問題があるわけです。

しかしながら私はこの態度に--実のところ共感するところもある一方で--ある問題が共有されていると見ます。それは、学者を目指すものは対象を分析する作業を精緻化する努力をすべきであり、その問題関心を「論文」というフォーマットに落とし込まないといけないというものです。言い換えるのならば、そこには「評論」とは「論文」とは別様の知的営為であるという見方が存在しています。

しかしながら、果たして私たちが抱える問題意識は、「論文」というフォーマットのみで解決・説明可能なものなのでしょうか。そうであるとは思えないというのは前半部で述べたとおりです。物事には、論文で扱いやすいテーマとそうでないものがあります。しかしながら一方で、そうでないテーマについて考えることは、同時に研究領域に資するものでもあるように思われます。

例えば私が扱った「コンサルタント」という「高級」な職業を批判的視座かつ内在的に分析し、現代社会の評論に繋げるという手続きは、類義の議論も含め殆ど行われて来ていないように思います。それはなぜなのでしょうか。おそらくその分析が、「論文」というフォーマットに沿って分析することが困難だからです。対象層へのアクセスは一般に困難ですし、ましてやそれをエスノグラフィの対象とすることに許可が降りることは――少なくとも批判的文脈においては――まずないでしょう(ANT的な組織論研究だと言えば通るかもしれませんが)。「高級」な職業が内在的に分析されてこなかったこと、逆に「低級」とみなされがちな職業が社会学者の分析の対象となってきたことは、おそらくそのアクセス可能性によって説明できてしまうのではないでしょうか。

しかしながらそうであるのならば「論文」というフォーマットに拘ることは、世界を説明しつくそうとする際には不適合となることもあるのではないか?そしてそれは「高級」な職業が抱え持つ「権力」と結果的に和合し、彼らの持つ資源を見えないものとしてしまうのではないか?なぜならば彼らはそのデータのアクセシビリティを操作することによって、自らを分析の対象としないようにすることが結果的に可能なのだから。そして現代社会においてこうした「高級」な職業が批判にさらされ、その問題が指摘され続けている状況にもかかわらず、そうした傾向を止め、分析の対象とすることが「論文」というフォーマットにとどまる限り困難なのであるのならば、「論文」のスタイルから離れることも時としては重要なのではないだろうか?

こうした問題意識を、私はずっと抱えてきました。つまり、問題は知的営為の分断と「業績主義」が、却って現代的な問題関心から目をそむけさせてしまうという点にあるわけです。だからこそ、私は今回「評論」的な文体で『アレ』に寄稿を行ったのであり、「論文」ではない形でこの問題系に迫ろうとしました。これが、本稿が当初述べた「意地悪な」問いに対する答えでもあります。

ではそれが実際に達成されており、問題の分析は妥当なものと言えるのか?それは実際の論考をご覧いただければと思います。個人的には、損はさせない原稿になったと思ってますので。

*1:真面目な話、『アレ』の編集体制は今まで寄稿した査読・商業誌の中で一番手厚く、かつ丁寧なものでした。こうなると、商業誌と同人誌の区分ってもはや質の区分ではないなと感じます。