若手社会学研究者が研究機関就職に際し求められる要件・その他活動履歴

 

社会学なんか学んでも…?

約10年前、筆者が修士課程進学をする際、よく言われていたのは「研究者なんかなれっこない」「博士課程は全員討ち死に」というもの。「博士が100人いる村」が、真実味のあるエピソードとして受け取られていた時期だった。進学する時は元いた大学の教員から「東大社会学なんて三振かホームランしかないようなとこに行ってどうする!」と言われたこともある*1。なので、正直修士課程進学時も、博士課程は念頭にはあったが、行ける自信は無かった。学振が当たったときだろうか。進学しても良いと思ったのは。

で色々有り、博士号を取って、学振PDという社会学では恵まれたポジションを獲得した。だが任期が3年しか無いということで、すぐに就職活動が始まる。

結論から言えば、聞いていたほど就活は厳しくはなかった。もちろん、メンタルには相当来るし、用意する書類や面接準備も民間就活とは比べ物にはならないのだが、修士時代に就活した時のスキルはかなり活きたし、何より書類通過率もそこまで悪くはなかった。

これは、筆者が特別恵まれている、というわけではないと思う。色んな先生方の話を聞く限り、首都圏の比較的恵まれた大学であっても、近年の社会学関連ポストの実質倍率は数十倍程度になるケースが珍しくない。少なくとも10年ほど前の就職倍率200倍、みたいな時代は過ぎ去ったと見てよいのではないか。

とはいえ、別に誰でも良いというわけではない。足切りラインは存在しており、また面接に呼ばれたからと言って確実に取られるわけではない。そのあたりには色んなスキルもある。というわけで、以下では就活した感じの備忘録を載せておく。あくまでも、筆者が自身の経験をまとめるために作ったものであることには留意されたい。

 

面接の構成

筆者の経験上、面接はほぼ以下の構成である。

 

模擬授業:30分程度

20分~40分程度というところが大半。なので、基本的には授業の一部分を切り取る形となる。

模擬授業の形式は、1回目をしてくるケース、自由のケース双方がある。また、科目内容を具体的に指定してくるケース、そうでないケース双方がある。これらは、面接時に通知されるので、先方の要望をきちんと汲み取る必要がある。

模擬授業時において重要なのは、「授業全体の資料を作っておく」ということ。授業の全体像を見せることが肝要で、シラバスの提出が求められない場合も配布資料に含めておくと良い。

というのも、30分というのは確かに授業の上手い下手を見るには十分だが、その授業の教育的価値を捉えるには、時間が足りないから。そして多くの先生は(私も含め)そんな授業が上手くないので、結局はこの教育的価値が結構響いてくる。自分が教えられる内容のうち、この教育的価値が分かりやすい単元を、模擬授業では実施すべきである。逆に言えば、指定されていないのに1回目ガイダンスをやるべきではない。

なお、当たり前だが予行演習はしたほうが良い。筆者はだいたいファーストドラフトを一週間前に作って、毎日一回予行練習→修正を4回ぐらいやるという感じで資料を作っていた。

さらに、可能ならばどういう人が面接官なのかを想定して、授業は組み立てること。専門分野、人員構成、職員は聞くのか、など。

 

面接:30分程度

基本的に聞かれるのは以下のようなことである。

 

研究に関すること

今後の研究の進め方や、抱負などが聞かれることも多いが、いつも、というわけではない。どちらかといえば、今までやってきた研究がどのようなモチベーションで、どうしてこんな研究をしているのか、が問われることが多い。

これに答えるためには、後のセクションにも関わってくるが、教育・研究等に関する「なぜ」を解消する、「一貫性のあるロールモデル」を作っておくと良い。個人的エピソードを織り交ぜつつ、今の研究・教育業績が過去からの一貫した積み上げによって生成されたと他者に納得させられるような語りの構造を作っておくということである。イメージとしては、DC応募書類の、「研究者像」を書くイメージに近い。

教育に関すること

基本的に模擬授業の内容に関する質問が来ることが多い。なぜこの授業単元を選んだのか、いつもこのような感じでこういう授業をやっているのか、全体の構成はどのようなものか、意図している教育効果はどのようなものか、など。ゼミや社会調査実習を持つ場合は、その具体的な設計を考えておくのも大事。

また大学のレベルやポジションにもよるが、よく言われるのは、「大学院生を育てるポジションじゃないぞ」ということ。つまり、学部教育がちゃんとできるか、その点に熱意があるかを見られている。

もちろんこれは「わかっております!」というしかないのだが、学生にどうわかりやすくものを教えるのかを伝えることが肝要、という感じ。

「〇〇」という科目できますか?という依頼が来ることもある。また、過去の教歴において、どのような経験があるのかを詳細に聞かれることもある。

「雑務」に関すること

なぜかはわからないが、「うちに来たら雑務があるぞ!」と脅すような質問はよく来る。そんなことは重々承知で応募していると思うのだが……雑務の内容は大学によるが、委員会、受験試験作問、オープンキャンパス、学生引率などが一般的。

これはもう、「はいはい」という感じで全面的にOKを出すしか無い。なお、「雑務」の量や質は、大学でだいぶ違うので可能なら事前に内情を知っている人に話を聞いたほうが良い。

その他

志望動機、この大学に入ったら何をしたいか、うちの大学の強みはなにか、なんてことを聞いてくる大学もある。こんな事聞いてくる時点で……と思わなくもないが、一応民間就活のような感じで、頭にロールモデルを作っておくと良い。

 

逆質問の時間は一応設けられているが、ほぼ無い(5分程度)ことも多い。なので、それほどこちらから質問を考えておく必要はないが、可能なら2~3問程度考えておくと良い。筆者は大体ゼミの運営法や、学生の傾向、委員会や広報業務の詳細について聞いていた。

なお、これをやっていたから良かったということは無かったが、筆者は面接に呼ばれた大学は、大学の決算・認証評価書類を数年分読むことにしている。その大学の財務情勢や、今後力を入れたい事業、第三者評価などを頭に入れておくと言った感じ。

 

専任講師・テニュアトラック助教職にて、面接に呼ばれる際に必要な「スペック」(2023年現在・社会学の「質」系でフィールドワークが求められない場合)

必要度 ☆3(ほぼ必須)

博士号 

とうとう旧態依然たる日本社会学界においても、博士号は必須となりつつある。もちろん、満期退学で就職している人もまだまだいるが、明らかに打率に影響する。経営が安泰な大学の常勤テニュア職となると、ほぼ必須ではないか。

なお、ここで必要なのは本当に資格としての「博士号」。内容は求められない。

大学での教育経験

これもほぼ必須。大学によっては明記しているところもある。だいたい1年以上が普通だが、場所によっては3年以上を求めるところも。そうなると、博士号取得後3年ぐらいはポスドクやらないといけないわけで…世知辛い世の中。なお、筆者の非常勤経験は、内定が出た段階で大学だけだと2年半(高専を入れて4年)であった。

 

必要度 ☆2.5(必須ではないが,重要度が高い)

博論単著(もしくは海外著名ジャーナル)

博論単著は、この分野だとかなり重要。計量系なら必要はないだろうけど。

また、これはしょうもない話だが本の「分厚さ」も結構重要。今までの経験上「こんな分厚い本を書かれて凄いですね!」と言われた事が多い。たかがお世辞、されどお世辞。

査読論文の「量」

社会学では強く重視されているようには思わないが、それでも最低限の量はいる。経験的には、3本~5本程度だろうか。単著があるかないかでも変わってくる。

科目適合度の高い教育経験

教育経験は一般にあれさえすればいいという考えが支配的なように思うが、そうではないというのが筆者の考え。というのも、今までの経験上、担当科目と適合性が高い科目を経験しているかどうかは明らかに見られているから。

特にこれは、科目名だけではなく、授業形態・人数に関しても当てはまる。理想論を言えば、社会学関連でポストを得るためには、以下の形態の授業の担当経験があることが望ましいと思われる。

  • 大規模講義(100人以上)※特に大規模私大の場合
  • 中規模講義(30-100人)
  • 少人数演習+初年次教育
  • 少人数演習+ゼミ ※専門科目教員の場合
  • 社会調査系実習※社会調査系ポストの場合
  • そのポストと直接関連する講義・演習科目

これは、逆に言えばそれまでに先輩などから受けていた科目の性質によって、ある程度出せる公募が変わってくるということでもある。例えば都内私大に就職したいなら、大規模講義の経験はあったほうがいい。逆に国公立大に就職したいなら、少人数演習や研究室運営の経験があったほうが望ましいだろう。 

 

必要度☆2(あったほうが望ましい)

単著・査読論文の「質」

面接に呼ばれる段階となると、業績の内容も読み込まれることとなる。となると、ここが審査委員に受けが良いかどうかは、採用序列に決定的な影響を与える。筆者の経験でも、面接に呼ばれた際は、やはりある程度先生方がこちらの研究に興味を持ってくれているケースが多かった。

研究費獲得経験(DC・PDなどフェローシップ含む)

必須ではないが、あったほうがいい。特に、学振PDはかなり強いという印象。フェローシップがあれば研究業績も出しやすいので、フェローシップは多重的に研究者のキャリアに影響を与えることとなる。なお、イメージ的には私立よりも国公立が重視する。

英語での教育経験

これも聞かれることが多い。特に有名大学に行きたいならあったほうがいいだろう。ただ必須ではない、という感じ。海外学位が効くとしたら、ここがほぼ不問になる*2という点だろう。

 

必要度☆1(求められないことも多い)

学会賞

あったほうが良いのは間違いないが、どこまで効くのかは未知数。たとえば、著名学会の賞を取っている人でも、他の要件を満たさないと結構落ちているイメージである。そもそも、その賞がどこまで偉いのかは門外漢にはわからない、というのも効いているかもしれない。もちろん、他の要件が揃っていれば鬼に金棒にはなるだろう。

専門社会調査士

必要じゃないところではマジで必要ではない。ただし、量・質問わず、社会調査系科目を担当する場合、本資格が求められるのは言うまでもないので、あったほうが良いことは間違いない。

大学試験作問経験

某大学にて一回だけ聞かれる。あったほうが良いのは間違いないだろうが、しかし専任教員経験がない研究者で、これをやったことがある人がどれだけいるのか?

民間企業等での経験

民間企業等での経験が聞かれるケースは多いが、それが採用に直結しているとは思われない。むしろやぶ蛇のケースも多々あった。ただ、業種柄そうした経験があったほうがプラスになるポストはある程度あるだろう。

有名高校出身・大学の学部

私にはとんと縁がない部分ですが、やはりある程度は効くよう。特に、大学の学部は、場所によっては一貫性が強いことを望む場合があり(学部教育を受けた経験があるかどうかが問われている)、学際系だと不利になることがある。といってもほぼどうしようもない部分ですが。逆に「獣道」キャリアを面白がってくれる事例もあり。

 

自分じゃどうしようもないもの

年齢

恐らく重要なファクター。特に、筆者が比較的面接に呼ばれたのは年齢が大きいと思われる。上記のスキルをある程度満たした上でだが、どの大学も若返りを企図しているきらいがあるので、若さは重要。そういう意味で、筆者の世代は下駄を履かせてもらっているようなものだろう。ただ、必ずしも若くないと就職できない…ということではない。事実、私が落ちたポストで40代以上が採用されている例もあった。

性別

社会学では、一部理系などに比するとそこまでジェンダーバランスが崩れていないせいか、女性限定公募はほぼない。あるとしたら国公立大の教養教員とか・任期付き教員とかで、こういうとこに「ガラスの天井」を感じる。個人的には、もう少しアファーマティブ・アクションしたほうがいいのでは、と思う教員構成の大学も多いが。いずれにせよ、男性だから不利だと思ったことはあまりない。逆は聞いてないがもちろん有るだろうし、トランスの方はなおのことだろう。

 

各論

公募の出し先

そもそもなぜ筆者は首都圏限定で出しているのか。人によって色んな理由が有るだろうが、筆者の場合は家族の都合である。正直、自分はど田舎出身ということもありアウトドアとか車が好きなので、東京に固執はしてないのだが、そうも行かないという感じ。

で、一般的に、首都圏公募は競争倍率が高い、だから地方の大学公募に出せ、「若いもんは一回地方にでろ」と言われる。もちろんそれは一理あるのだが、いきなり都内の職につく望みがないというわけではない。

そもそも筆者は、上記のような意見にはあまり賛成しない。というのも、正直過去の研究者ライフコース*3を今どきの若手院生がたどるのは不可能に近いからだ。男女問わず、パートナーがいる場合はその人の職業的ライフコースを無碍にできないだろう。となると多くの場合は自ずと単身赴任となるわけだが、共働きなら男女問わず子育てをパートナーにぶん投げるのは不可能だ。首都圏内で家族の介護をされている方も居るだろう。そうであれば、一体仕事などできるものだろうか。嫁と子を連れて行って、大学教員を地方でやるなどという時代ではないので、若手の時ほど地方に行くのは難しくなっている。

これは地方大学に勤める価値が無い、と言っているのではない。むしろ、私は地方に出れる環境があるなら、出た方がいいと思っている。ただ、そういう選択が取れる人はかつてと比べ大幅に少なくなっているのではないか、ということである。

 

コネ(出来公募・リファラル採用)について

正直、世の中にある公募には、意中の者がいることが少なくない。特に、良い公募であればなおさらであり、筆者の経験から言っても、面接まで進んだ公募において、実質出来公募的な構造になっているもののほうが多かったぐらいである(もちろん殆どはこっちが噛ませ犬である)。では、なぜ出来公募があるのだろうか。

そもそも論:なぜ出来公募をするのか

一般に、縁故採用は忌み嫌われる。それは、能力主義的世界を実現する上で、これが妨げとなると考えられているからだろう。例えば、よく聞くのはこんなエピソードだ。自分の専門がドンピシャの公募があったら出したが落とされた。取られたのは自分よりも業績がない人だ。これは出来公募に違いない……

筆者の考えでは、こういう考えは多くの場合当てはまらない。もちろん、従順な部下を取るために、あえて(あまり科目適合性がない・業績がない)知り合いをゴリ押しするという事例がないわけではない。しかし、多くの場合出来公募は、「同僚に迎えてもいいスペックを持つ研究者を、確実に捕まえる」ためにやっている性質が強いと思う。

そもそも公募は、採用側にとっても大きな賭けだ。テニュア大学教員公募の採用者はだいたい1名のみであり、かつ大学は少人数(せいぜい数十人)の教員で多くの事務を回す必要がある職場である。となると、もし問題がある人物を雇ってしまうと、数十年に渡ってリスクとなる。これが、広義の出来公募を促すインセンティブとなる。

ここで、筆者は「広義」の、と書いた。つまり、出来公募というのにはグラデーションがあり、その強度はまちまちだ、ということ。例えば、「ガチ公募」で取られたと主張している人の中にも、「公募中に声をかけられた」人ぐらいはいるのではないだろうか。筆者の考えだと、これも縁故採用の類型に当てはまるものだと思う。世の中の公募のうち、かなりのうちは出来公募と言いうるのではないか。

だからといって、これがすべて否定されるべきだ、とまでは思っていない。そもそも民間でもリファラル採用が一般的となった昨今、信頼できる人がほしいという採用側の欲望を無視することも困難だろう。ただ、噛ませ犬として呼ばれる方はたまったものではないというのは強調しておきたい。せめて噛ませ犬には交通費と資料コピー代くらいは補填してほしいものだ。

これは逆に言えば、意中の人がいるといっても、最初から全てが決まっているわけではない、ということだ。事実、筆者も自分以外の事例で、「出来」がひっくり返った例を知っている。ただ、基本的にそれは意中の人がやらかした場合であり、基本的に二番手以下は敵失を待つ他ない。

出来公募に呼ばれるために

では、この現実を踏まえて、私たちはどうすればよいのか。筆者の考えは、広義の出来公募に呼ばれるぐらいになるべきだ、というものである。

そこで重要なのは、色んな人の話を聞く限り、少なくとも社会学系のテニュア教員は業績バトルではない、という点。おそらく、採用の際に担当者らの頭にあるのは以下のようなフローチャートだ。

 

  1. 業績やスペックで足切り(このラインは決して高くはない・いわゆるロングリスト)
  2. 科目適合性・教育経験などでさらに絞り込み、代表業績を読み込んだうえで数名に面接(いわゆるショートリスト)
  3. 模擬授業と面接で「人間性」と授業ができるかを判定
  4. その上で問題がある人を弾き、残りの人で誰を取るかを「コネ」やスペック、業績などを加味して決める

 

つまり、業績数は最初と最後にしか効かない。しかも最初の足切りのラインは決して高くはなく、最後の採用可否は業績以外の要素で決まることも多い。そもそも、日本の大学の文系大学教員は、基本的に教育職であり、事務職である。となると、基本的に求められるのは「一緒に仕事がしたい人・事務仕事ができる人」だろう。研究が面白そう、業績がすごいことはもちろん加点要素だが、それは恐らく採用の本質ではなく、上記の要点を満たさない人は同僚として迎え入れられ難い。声をかけようと思っても、業績以外の要素が障害となってポシャる、ということは結構あるのではないだろうか。

よって、もし出来公募の攻略法が、広義の出来公募に呼ばれるようになる、という点にあるのだとしたら、結局のところこの点をどの程度意識し、自身のポートフォリオ*4を作っているのか、という点が重要となる。実は、公募の前からすでに勝負は決定しているかもしれない。

なお、この言明はこの現状を無条件に肯定するものではないという点には留意されたい。出来公募はいかなるものでも許されるべきではない、という考えはありうると思うし、心情的に言えば、私はそちら側の立場である。とはいえ、そうだとしても現状がどうなっているのかを知ることは重要であると考える。

戦歴

以下は私の2年間の公募戦士履歴です。氷河期時代と比べ、だいぶ状況が変わってきたのが分かるのではないでしょうか。なお、特段の付記がない場合は、すべて専任講師・准教授のテニュアテニュアトラック職です。また、細かいディテールの部分は事実と異なる形にしているところがあります。

なお、採用された先の情報については触れていません。また、博士号以前の就活については触れてませんが、2年で4つ程度出して全滅でした。

2022年

首都圏私大 メディア論 面接落ち

書類力入れ度 ☆2 面接力入れ度☆2

正直当初出す気はなかったのだが、丁度研究の合間だったので、書類を作る時間が有り応募。初面接と相成ったが、初めての試みということもありあまり模擬授業が上手く行かず撃沈。またここは専任教員全員が面接に参加する形だったのだが、これもかなり緊張した。場慣れは重要である。

首都圏国立大 社会学全般 書類落ち

書類力入れ度 ☆1

書類郵送は良いとして、まさかの業績(5点)を各6部要求してくるという鬼畜の所業。当然博論が送れないので、査読論文だけ提出したら書類落ち。色々理由はあると思うのだが、せめて現物資料は1部にしていただけないだろうか、と思った公募。

首都圏私大 社会学全般 面接落ち

書類力入れ度 ☆3 面接力入れ度 ☆3

自分の専門が結果的に教えられそうだったので、応募。ここも凄くてなんと模擬授業の参加者が18人!資料も当然それだけ居る。コピー代も馬鹿にならない。

2回目ということもあり、初回よりは模擬授業・面接ともに上手く言った。全般的に事務職員の権力が凄く、教員の力が弱そうな感じ(面接は6名で、うち事務職員が3名。)。事務方の「もしかしたら同じ業務内容で年収2/3の任期付き採用かも」との言葉に腹を立て、「そんな条件なら行きませんよ」と言ったせいか面接落ち。後日再公募となっていた。今思えば本命扱いだったのかもしれない。

 

2023年

首都圏私大 社会学理論 書類落ち

書類力入れ度 ☆2

ふと「自分なら社会学理論でも出せるのでは?」と思い書類を出してみたが、全くだめ。学説史のコマを持つ公募だったので、やはり社会学の学説史の論文・教育経験がないことが問題だったのだろう。

地方国立大 経営学説史 書類落ち

書類力入れ度 ☆2

珍しく経営学説史の公募。当時、社会学系の公募がなかったことも有り、他分野でも学説史+地方なら可能性あるのでは……と思い出してみたが、書類落ちの上で再公募となっていた。これで今後経営学方面の公募は断念すべきだという結論に至る。やはり専門分野の壁は高い!

 

なお、以下の公募からは単著が出た後のものである。内定が出たのもこの時期

首都圏私大 メディア論 書類落ち

書類力入れ度 ☆1

業務内容はこれまでの教育経験含めドンピシャに近かったが、諸事情によりまったく気が乗らず、適当な書類を出してしまった。結果として書類落ちだったので、やはり適当な書類は出さないほうが良いと痛感。

首都圏私大 社会学全般 面接落ち

面接書類力入れ度 ☆2 面接力入れ度 ☆3

有名私大で、かつ誰でも出せる公募だったので、ダメ元で出したらまさかの書類通過。自分のような、どの連字符社会学にも当てはまらない研究者の場合、倍率が高くてもこういう公募のほうが通りやすいのかもしれない。

面接は過去で一番気合を入れる。そのせいか、今までで反応は良かったように思えたが落選!本の内容が褒められたり、「模擬授業用資料が、うちの大学の教員からアドバイスを受けたとしか思えない程、内部事情をよく汲み取っている*5」と言われたので、行けたと思ったのだが。選考委員5名+職員(恐らく結構偉い)1名が選考に関わる形。

落ちた理由は、恐らく授業が専門的過ぎた点と、強力なスペックを持つ意中の人が別にいた事。学部教養の人材を求めていたのはわかっていたが、強力な対抗馬がいるだろうことを鑑み、自分の専門性を推す形で学部の専門科目と教養科目の連接性をアピールしたほうが良いとの判断だったのだが、そういうのは望んでいなかったようだ。もし採用されていたら待遇的にも大金星だったので、期待したのだが、現実上手く行かない。

首都圏国公立大 社会学全般 面接辞退

面接書類力入れ度 ☆3 

10年任期+テニュア昇格有りで給与もそこまでは悪くないし、業務負担が少なく研究が捗りそうなので応募。某大学の内々定通知が出た数分後に面接の連絡があり、辞退。面接通知の段階で、本の内容が褒められたのは嬉しかった。

 

結論

というわけで、筆者の書類通過率は5/9で、56%であった。出し先をほぼ都内・首都圏のテニュア職に限定していることを考えれば、これはかなり高い打率だろう。一方で、だからといって直ちに内定が降ってくるわけではない。面接通過率は1/4、辞退が1。テニュア職公募は転職組も居るので、やはり狭き門ではある。が、少なくとも絶望的な数値ではない。

これだけのケースから言えることはそう多くないと思うが、一つだけ確かなことがある。それは、ある程度のスペックを揃えてから就職活動をしたほうがよい、ということだ。よく、「何が通るからわからないから、なんでも出せ」みたいな意見も聞くが、あまりそれには同意できない。そもそも、就職活動はそれ自体がコストなのであって、かつ面接まで呼ばれなければ、リターンはほぼ無い。だから、少なくとも書類通過率が高くなるまでは、書類をいっぱい書くよりも歯を食いしばって論文なり本を書いた方が良い。公募書類を50本書いても、誰も評価してくれないのだから。

では、どれくらいのスペックが要されるのか。これはいろんな要因も加味されるのでなんとも言えないが、筆者の経験からいうと、☆3と☆2.5をすべて満たし、☆2と☆1を複数満たした段階で、ほぼ書類が通るようになった。他の方の意見も聞く限り、概ねこのあたりが大体最大公約数だろう。博士号取得後、PDやポスドクの数年間をかけてこのあたりのスペックをすべて満たし、その後テニュアを狙うというのが、2023年現在の社会学系若手研究者の目指すべき有り様なのではないか、と思われる。

この意見に、違和感を持たれる方も居るだろう。そもそも、現状お金がなくて研究できないから就職したいのであって、就職するために研究しろ、なんてアドバイスにもなんにもなってないと。あるいは、数撃ちゃ当たるで就職できる事例もあるのだから、就職活動を控えめにせよという意見は本末転倒だ、という見方もあるだろう。

これらの意見は重々承知だが、しかし本質的にこれは就職活動である。大学側がこちらを選ぶと同様に、こちらも大学側を選べるようになるべきなのであり、そしてそのためには「企業としての人間」≒研究者としての「経営戦略」が必要ではないだろうか。たとえば、たまたま引っかかった大学がヤバかったときに、スペック上転職することが容易でなければ、その人の研究者人生は非常につらいものとなるだろう。あるいは、お金がないからと言って、焦って教育・学務が多い大学の非正規ポストに就職することもまた、その人の研究者人生に負の影響を与えるだろう。初職は研究者のキャリアラダーのほんの一コマに過ぎない。だからこそ、どうやってそこにリーチするか、リーチした後どう振る舞うかを考えることが重要なのである。「何が通るからわからないから、なんでも出せ」というアドバイスが有害なのは、総合的なキャリアデザインの結果として就職活動があるという認識を無くし、一種の「博打」的世界観に研究者をいざなってしまう点にある。

もう一つ、このエントリで強調しておきたいことがある。それは、現在の社会学アカデミアは決して昔のようなレベルの就職難ではなくなっている、ということだ。もちろん、全員が就職できているわけではないし、少なくとも暖冬ではない。しかし、筆者レベルの研究者ですら多く面接に呼ばれていることからもわかる通り、成果が全く報われない、という世界ではなくなりつつある。もちろん、それが文系大学院進学者の減少という、需要というよりも供給面によって生じている現象であることは悲しむべきことだ。だが、若手研究者にとってそれは、競争相手の減少という点では喜ぶべきことでもあり、かつこのトレンドはあと数年は続くだろう*6。いろんな業界を見てきた自分だから言えることだが、この職業にはやはり独自の魅力がある。なので、もしこれを見ている学部生や社会人の方がいれば、「就職できない」という理由で、社会学系大学院進学を諦めないでほしい。少なくとも修士課程までだったら、(授業料を除けば)全くデメリットはないので、多くの方が将来の進路として、大学院進学を検討してほしいと私は思っている。

 

 

 

*1:このひとは恩師なので、あくまでもギャグだということにはご留意ください。進学の際にはお世話になりました。あとこれ、今思うと吉見俊哉『都市のドラマツルギー』の見田先生の序文のオマージュだったんですかね。

*2:仏語・独語圏など留学者はまた別だろうが、その場合は地域研究+語学のポストがある

*3:伝統的なのは、東大→地方国公立→都内有名私大or東大というやつ

*4:実にネオリベラル的な主体の話をしている、ということは分かっている。しかしそもそもアカデミアというのは極めてネオリベラルな社会である。その上で何をやるか、話すかということとは別に、この構造自体を知っておくことは重要だ

*5:今思えばこれは意中の応募者が、採用担当教員と相当綿密にやりとりをしていたことを露呈する発言だろう

*6:もちろん、今後の市場動向を考えれば就職した後が大変だという意見はある。だが、それもどの大学に就職するか次第ではないか。いわゆる研究者が考える「就職したい大学」は、20-30年後ぐらいまでは絶対残っているからだ。いやいや、それでも縮小する業界にはいたくないという意見もあるだろうが、しかし、30年間成長が約束されている業界が、特に日本においてどこにあるというのか?65歳まで同一業界にしがみつく気なら、どんな職業選択をしたってしんどいことには変わりはない。少なくともそれは、やりたいことを諦める理由にはならないのだ。

『〈消費者〉の誕生――近代日本における消費者主権の系譜と新自由主義』に関する告知・ならびに情報の集約

はじめに

本ページは、以文社より2023年5月16日に発売されました『〈消費者〉の誕生――近代日本における消費者主権の系譜と新自由主義』に関するイベント情報などを集約するものです。

www.hanmoto.com

書評

図書新聞

評者は関西学院大学の今井この実先生です

dokushojin.stores.jp

 

週刊読書人

評者は日本大学の原山浩介先生です

[3515]2023年11月17日号jinnet.dokushojin.com

 

社会学評論(295号)

評者は筑波大学の加島卓先生です

J-STAGE公開は2025年です)

イベントに関する告知

合評会

歴史社会学研究互助会開催

林凌著『〈消費者〉の誕生――近代日本における消費者主権の系譜と新自由主義』(以文社) 合評会
日時:2023年8月10日(木)14:00-17:00
開催形態:ハイブリッド
対面会場:東京大学駒場キャンパス2号館(教室は人数確定後周知)
趣旨:
本合評会では、林凌著『〈消費者〉の誕生――近代日本における消費者主権の系譜と新自由主義』(以文社)を取り上げる。近代日本における〈消費者〉像の形成過程を分析した本書は、これまで強く意識されてこなかった消費者主権をめぐる社会・経済思想の系譜を指摘するとともに、その現代社会に対する影響力を示そうとするものであった。この観点より、本会においてはまず筆者の林凌が、本書の構成や含意、その執筆経緯などについて述べた後、評者の加島卓(歴史社会学)と石川洋行(消費社会論)がそれぞれの見地より本書を論評する。歴史社会学と消費社会論は、日本でそれぞれ独自の発展を遂げてきた一方で、その知見が近年相互に影響を与えてきたとは言い難い。本会の実施が、その機会となることを願っている。

報告
・林凌(日本学術振興会特別研究員(PD))
コメント
・加島卓(筑波大学
石川洋行(八洲学園大学非常勤講師)

参加登録
開催日2日前の8月8日(火)までに以下のフォームにご記入の上、参加登録を行なってください。
https://forms.gle/pEYVnDK149wjHPg59
前日までに教室名ならびにzoomリンクをお送りします。
※対面参加の方も必ず登録をお願いいたします。
※zoomリンク・報告資料等の二次配布はおやめください。

注意事項

ご参加希望の方は、主催する歴史社会学研究互助会が策定している以下のアンチハラスメントポリシーを事前にご確認ください。
・歴史社会学研究互助会アンチハラスメントポリシー
https://drive.google.com/file/d/1KcQdoNrX0tKKDtr_8uRQSublDbReE_BQ/view

主催:歴史社会学研究互助会

 

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消費文化と労働研究会 開催

下記の日時にて、林凌著『消費者の誕生:近代日本における消費者主権の系譜と新自由主義』(以文社、2023年)の合評会を実施いたします。参加を希望される方は、下記のフォームにご記入ください。開催日が近づきましたら、参加用のURLをお送りいたします。許可なくリンクを転載することは避けていただきますようお願いいたします。

評者:畑山要介(豊橋技術科学大学)・跡部千慧(立教大学)・今野晴貴NPO法人POSSE代表)

ハイブリッド開催といたしますが、現地の映像・音響に関する環境の保障には限りがありますので、可能な限り対面参加されることをおすすめいたします。

【日時】12月10日(日)14:00~18:00(予定)

docs.google.com


【開催形式】ハイブリッド開催(対面会場:成城大学3号館311教室/オンライン会場:Zoom)
【参加費】無料

◎当日のプログラム(報告者・報告順等は変更になる可能性があります)
14:00-14:05 開会挨拶
14:05-14:30 概要説明 
14:30-15:00 畑山要介氏による書評コメント
15:00-15:15 休憩
15:15-15:45 跡部千慧氏による書評コメント
15:45-16:15 今野晴貴氏による書評コメント
16:15-16:35 休憩
16:35-17:00    林凌氏によるリプライ 
17:00-17:55 再リプライプラスフロアと全体討議
17:55-18:00 クロージング

◎書籍の情報はこちら
http://www.ibunsha.co.jp/books/978-4753103751/

◎主催
消費文化と労働研究会

◎お問い合わせ
永田大輔・松永伸太朗の両名にご連絡ください。
永田:dn.networks410(@)gmail.com
松永:shintaro-matsunaga(@)nagano.ac.jp

カルチュラル・スタディーズ学会若手研究会開催

「消費」の力学を問い直す
報告者:林凌(学振PD)
指定討論者:酒井隆史(大阪公立大学
司会:大石茜(津田塾大学非常勤講師)

日時:2024年1月20日(土)15:00~17:00
場所:明治大学和泉キャンパス図書館ホール
参加方法:対面、Zoom
参加費:無料 ※若手研究会のため、40歳以上の専任教員ないし正規雇用社員の方が参加される場合にはご寄付をお願いしております。

参加ご希望の方は以下よりお申し込みください。
https://forms.gle/633CGYsxmJHchGvG9

概要
本イベントでは、『消費者の誕生 近代日本における消費者主権の系譜と新自由主義』(以文社、2023年)を上梓された林凌氏をお招きし、本書で書かれた「消費者」ないし「消費」をめぐって形成されていく社会について報告していただきます。
「消費社会」「消費文化」は、カルチュラル・スタディーズにおいて重要な対象でした。人々が資本主義社会の中で生産されたモノをどのように「消費」(受容)するのかを、カルチュラル・スタディーズでは、権力への抵抗や文化的アイデンティティの生成といった視点から読み取ってきました。他方、林氏は「消費(者)」それ自体の概念の形成にアプローチしています。「消費すること」が社会のなかでいかに重要な行為として考えられるようになり、「“良き”消費者」がどのように構想されていったのかが、林氏の主な問題関心です。林氏には、本書で書かれた内容をもとに、日本における「消費」の系譜について報告していただきつつ、カルチュラル・スタディーズにおける「消費」をめぐる議論に新たな風を吹き込んでいただきます。
また、指定討論者として酒井隆史氏にご登壇いただきます。酒井氏は名著『通天閣 新・日本資本主義発達史』(青土社、2011年)において、大坂ミナミとして知られるエリアがいかに消費の街として形成されたのかを分析しています。さらに酒井氏は、必読書『自由論 現在性の系譜学』(河出文庫、2019年)において、現在社会を貫いている「新自由主義」の生成過程について詳細に分析しています。これら酒井氏の著作において議論されている内容は、林氏の「消費」論を支える一角をなしています。
イベント当日は、お二人のディスカッションならびにフロアとのディスカッションを通して、「消費」という形式が持つ力学、そしてそれに内包されている「新自由主義」の問題について考えていきます。

 

立命館大学人文科学研究所重点プロジェクト「グローバル化と地域の多様性(diversity)」開催

 日時    

2024年3月16日(土) 15:00~17:00 

 

     会場     

立命館大学衣笠キャンパス 創思館407・408教室

 

  登壇者  

林 凌 (日本学術振興会 特別研究員)

「近代日本における消費者主権の系譜と新自由主義」 

評者:下村晃平 (立命館大学大学院社会学研究科博士後期課程)

司会:稲葉渉太(京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程)

 

参加無料・事前登録不要

www.ritsumei.ac.jp

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ブックラウンジアカデミア(著者、自著を語る)

www.bookloungeacademia.com

読書会・書評会の開催支援について

読書会、ならびに書評会を開催される方で、林に参加を希望される方は(assyupokira[at]gmail.com)までご連絡ください。以下の様な場合に、お使いいただければと考えております。

  • 林に対し、内容に関する説明をして欲しい(30分程度)
  • 林に対し、内容に関する質問をしたい
  • 林と当該書に関連するテーマについて議論をしたい

オンライン参加の場合は、原則お受けします。対面での参加をご希望される場合は、開催場所や日時についてご相談下さい。

実績:2団体の読書会に参加(2023/09/09)

 

 

 

 

学振関連書類を公開します。

*DC1について、間違えた書類(2018年度採用分提出→不合格)をアップロードしていました。修正しました。

最近、学振関連の審査書類くださいと聞かれることがある。それはいいのだが、あまりふだんやってないSNSなどから来ると、見落とすことが多々ある。実際それで今まで複数人の方に不義理をしている。

というわけで、今まで書いた学振書類のうち、内定が出たものをすべて公開する。時期は以下の通り。

DC1:2016年度採用分

DC2:2019年度採用分

PD:2021年度採用分

知ってのとおり、2021年度採用分より、書類の書き方は大きく変わった。なのでそれ以前のやつは、そのまま参考にすることは出来ない。あしからず。

DC1とDC2の書類が2つあるのは、筆者がDC1内定を蹴って何を血迷ったか民間企業に就職したため(復学後にDC2に合格)である。DC1とDC2両方に受かった人間はあまりいないと思うので、そういう意味では比較すると参考になる部分があるかもしれない。

個人情報については削っているが、自己評価欄は残している。あまり関係ないという人もいるが、社会学の場合私は結構重要なのではないかと考えている。良くも悪くも、「なんであなたがそれをやってるの?」が問われる領域だと思うので。

合格者全体と比較した際(当然、私の観測範囲内でのこと)、私の書く書類は意図的に「エモ」に振っている。これの良し悪しはあると思うが、そういう性格の書類だということをご理解いただきたい。

もちろんどのような方であろうと、勝手にダウンロードして構わない(私も出歯亀根性で他人の書いた書類を見るのは好きである)。ただまあ参考にして受かったら、もしよければ教えて下さい。あと、なんか個人情報ダダ漏れだったら、こっそり教えて下さい。意外とそういうとこ抜けてるので…

 

 

文系大学院生が博士号を取得するに至った経緯と所感

概要

2021年12月に、私は博士(社会情報学)を授与された。どんな凡庸な人間であっても、博士号を取るまでにはそれなりの経緯がある。そして、そうした経緯に関する情報は、それなりには面白いであろうし、後進のためになる部分もあるかとは思う。

最初に

筆者の専門分野は社会学であり、更にその中でも歴史学・思想史よりの分野である。つまり、同じ社会科学系といってもポリサイや経済学に属する人々とは感覚が大きく異なると思われる。同様に、おそらく哲学や美学と言ったザ・人文学に属する人々とも感覚が異なることが想定される。

博士論文を提出するまでの事務手続きには、多くのコストが費やされ、個人的にも極めて苦労したという所感を持っているが、これは私が博士課程を送った研究環境に強く依存した話なので省くこととする。おそらく世の人はこんなに苦労しないし、しなくて良い。

後述するように、筆者の教育経験やライフコースは、一般的な文系研究者のそれといささか異なる。とはいえ、文系研究者(を目指す人々)の属性の分散がそれほど小さいとも思えないので、何かしらの部分は参考になると思われる。

なぜ博士号を取りたいのか

博士号を取ろうとするモチベーションは、人によって様々だと思われるが、大きく括れば研究職を目指すために必要だからだ、ということになると思う。となると、問題はなぜ研究者を目指すのか、という点になる。というわけで、いささか饒舌な自分語りではあるが、その点について触れる。

筆者の場合、別に周囲に研究者がいたわけでもなく、むしろそうした環境からは縁遠かったと思うのだが、思えば中学生の頃からぼんやりと研究者という職業に対するあこがれがあった。とはいえ、どうすれば研究者になれるのか、ということもよく分からなかったので、とりあえず「研究」っぽいことができるだろうし、手に職もつけられるだろうということで、実家から通える高専(工業高等専門学校)に進学した。

もちろん、この選択は大間違いであった。今思えば同じクラスから理系の博士号取得者も出たのだから、悪くない環境ではあったのだろうが、数学能力の低さにより完全に落ちこぼれたこと、地方都市の文化的閉塞感に思春期特有の鬱屈した感情を抱いていたことにより、3年生の夏に突如、年度末に退学し、今年中に文転・大学受験を行うことを決めた。国語と社会系科目の点数が良かったことは救いだったが、とはいえ苦手科目をどのように勉強すればいいのかさっぱりわかっていなかったので、夏にはそれなりに見られる数字だった模試の偏差値は、母集団の能力向上とともに低落の一途を辿り、最終的には奇跡的に一つだけ引っかかった関西私大の地理学専攻に入学した。

だが、これは結果的には幸運にも良い選択であった。第一に、この専攻は比較的研究者の再生産に成功しており、アカデミズム的気風がそれなりにあった。そのため、筆者のような人間でもそれほど浮かずに済んだ(浮いていないとは言っていない)。

第二に、十分に明確化されていなかったとは言え、多くの人々との対話を通じて、自分の問題関心というものをそれなりに固めることができた。筆者の問題関心は、今思うと自治体行政や企業経営においてなんとなく支配的となっているロジック(きまり文句)の形成過程と、それが人々の実践に与える影響の双方を考えることにあったのだが、地理学という領野で学ぶことは、前者については地理思想などから、後者についてはフィールドワークなどから考えるにあたり適していた。おそらく、最初から社会学や社会思想史をやっていたら、研究テーマが地に着くことはなかったように思われる。

第三に、よくも悪くも天狗でいても問題がない環境であったことも、筆者のような夜郎自大には適していた。おそらく何かの間違いで東大なぞに学部で入っていたら、鼻をへし折られとても進学しようとは思わなかったろう。

ダラダラと書いたけれども、ようするに言いたいのは筆者の人生において、博士号だの文系の研究者だのといった選択肢は、学部の後半になるまでまったく現実味がないものであった、ということである。ふわふわした「研究者になりたい」という希望が現実味のある選択肢として何となく見えてきたのは、修士課程も終わりになった頃であったし、「研究者になれるかもな」と思ったのは、何本目かの査読論文が通った社会人博士時代であった。

そしてこの経験から言うと、研究者として博士号を取るために重要なのは、やはり才能というよりも諦めない心であるように思う。特に私がいるような分野は、やりさえすれば何らかの成果は出るので、それを積み上げながらより大きな問題系に接続させていくという作業が重要になる。この作業は確かにセンスが物を言うところもあるが、一方で具体的な成果なくして行うことが出来ない。そして、その具体的な成果を積み重ねるためには、しばし単調な作業を繰り返しながらも、自らの研究の有用性を信じ続けることが必要になる。

ではその有用性はいつ・どのように確信できるのか?筆者のような思い込みの激しいうぬぼれ人間であることもそれには一助するだろうが、おそらくそれは触っている資料体からそれまでにない知見を得るという経験が、他では代替できないものであると考えられたときではないだろうか。筆者は修士課程時、歴史資料を分析する作業を通じて、自分がそれまで知り得なかった歴史的系譜を確認し、それを通じて先行研究の知見を刷新することができること、そしてそれが現代社会に支配的な諸観念を書き換えうるものであると思うようになった。博論を出し、博士号を取ることを人生の目標にするようになったのはそれからで、逆に言えば自分のアイディアが世に出るまでは死ねないという実感を持つようになった。

博論を出すことが、自分ができる最高の仕事であると思えるならば、やはり博士号を取ろうと人はするのだと思う。逆に、そうでないならば、当然より高い賃金を、より高いチヤホヤを…に流れていくのは人の常である。私は社会人時代、どうしても社内で最優秀とされている人ほど仕事に打ち込めなかったが、それはそれがどうしても自分の天職と思えなかったからであった。逆のパターンも数多くあるだろう。

博士号を取得するにあたって考慮したほうが良いこと

そもそも文系大学院に進学すべきなのか?

以下は各論である。しかし、それなりに重要なトピックであると思われる。

いろいろな意見があるだろうが、私個人の経験としては、少なくとも修士課程に進学したことは自分の人生において利益しかなかった。理由としてはまず、おそらく学部卒ではエントリーシートすら通らなかったような企業に入り、それなりの賃金を得ながら、その後の研究者人生に資する貴重な経験をすることができた、という点がある。筆者はいわゆる「院ロンダ」に該当する進学をしているが、こうした進学が一般的な人生設計においても有用となる可能性は高い、という点は強調しておきたい。事実、筆者だけでなく周辺にいる人達を見ている限り、いわゆる不本意就職はほとんどの人がしていないように思われる*1

第二に、少なくとも東大・京大のような大学の文系大学院に進学することは、それまで見たことがなかったような人々と触れ合う機会を提供する。筆者は上述の通り高専を退学後関西私大に入学し、その後大学院に進学したが、大学院で出会い、現在も仲良くさせていただいているような人々は、正直それまでの人生で一回も出会ったことが無いような人々であった。いわゆる首都圏の中高一貫校を出た人々と、あるいは東大のいわゆる神童に属するだろう人々と知り合いになれたというだけで、個人的には進学する価値があった。

よって、もちろん向き不向きもあるので一概に勧めることはできないが、それなりに研究が好きで、上昇意欲がある人であれば、東大・京大などに「院ロンダ」することは、少なくとも修士課程においてはおすすめできる選択肢である。もともと有名大学にいる人を除けば、文系大学院に進学することに経済的不利益は殆どなく、むしろ階層上昇の契機を提供する。

ただし、博士課程に進学することにはそれなりの覚悟がいる。文系院の博士課程というものは、現状研究者になるための登竜門として位置づけられており、広範なキャリアを保証するものにはなっていない。

ただこれは、ある程度は詮無いことであると個人的には思っている。なぜならば、現代社会を何らかの意味で批判したいと思っている人間が、アカデミズム以外の界でサクセスを勝ち取ろうとすると、深刻な認知的不協和に陥るからである。

筆者が民間企業で労働していたとき、客観的に見ればいい身分だったにもかかわらず、しばしば不幸であるという感情を抱いていたのは、この点によっている。逆に言えば批判意識がないのならば、アカデミズムに無理に残る必要はないだろう。批判意識の存在は、博論の意義を内的に位置づける重要なファクターだからだ。

修士課程後就職するか、そのままD進するか?

筆者は修士課程修了後、博士課程に進学した後休学し、3年間コンサル会社にて勤務した(最後の一年は復学)。ではこの選択は研究者としてのキャリア形成において、果たして良かったのか。

まず利点を述べると、先述したように修士課程修了後に、なかなか得ることが出来ない経験と、それなりの賃金をもらうことが出来たことは僥倖であった。前者については、社内におけるプロジェクトの意思決定過程や、様々なクライアントとのやりとり、国や地方自治体の会議のロジといった(ブルシット・)ジョブを経験することが出来たのは、バイトなどでは得ることが出来ない、研究の勘所を押さえる上で得難い経験であった。

もちろんこれは、筆者が日本における地域政策・地域開発の形成過程や、流通業の仕組みに対する関心を持っていたという事情あってのことであったが(筆者はこの観点からのみ就職先を選択していた*2)、社会学やその周辺領野の場合、自分の研究と関連する労働というのが何かしらあると思われる。というわけで、研究をすすめる上で労働が完全に無駄になるというわけではない。データを取れるわけでなくとも、データ解釈に役立つという経験はしばしば生じる*3

さらに、後者について言えば、ありがちな話ではあるが貯金をある程度作ることが出来たのは、研究生活を進める上で非常に重要であった。学振の特別研究員(DC)は、諸々の事情を考えれば文句を言えるような待遇ではないのだが*4、それでも東京で家を借りながら暮らすには十分とは言えない。筆者はそこそこケチな性格だと思うが、企業を退職後、特別研究員の奨励費のみだと年間(数)十万円程度の赤字が出ていた。これをなんとか補えたのは、それまでにあった蓄えのおかげだったし、2年半の特別研究員採用後、博士号が出るまでの3ヶ月はほぼ無職だったので、果たして企業に就職していなかったら博士号までたどり着いたかどうかはよくわからない。やはり、進学前に100万円は貯金があったほうが良い*5

では、欠点はどうかというと、時間が足りないという点と、マインドリセットが難しいという点を挙げることができる。前者については言うまでもないが、フルタイムで労働しながら研究をするのは並大抵のことではない。特に文系院生が就職できるような職種は、給料の多寡にかかわらずブラック気質なとこが多いので(コンサル・マスコミ・広告など)、研究に割ける時間は一般的な院生の1/10~2/10といったところだろう。ただ、時間が限られた中でどうやるのか、という点を勢い考えざるを得ないので、効率化という点では良い点もあるが。

後者の点はより深刻だし、後遺症が残る。分かる人には分かると思うが、企業での労働は、表面的に研究と類似のタスク(総合評価入札業務・対企業プレゼン等)であっても、研究とは最終的な到達点が異なる。労働の場合、その業務には締め切りというお尻があるし、それが終わってしまえば、どんなに消化不良であろうと先に進むしか無い。逆に言えば、成果物の評価は相対評価でしか無いし、そのクオリティは問われないことも多い。いきおい、クオリティの追求をそこそこで辞め、試行回数を増やすべきだという思考回路が脳内に形成される。

ところが、研究というものはあくなきクオリティの追求をしないと、なんというか限界突破をすることができず、評価の対象になるようなものにならない、というところがある。特に博士論文を書くにあたって、この頭の切り替わりがなかなか生じなかったことは、大きなタイムロスとなったし、メンタル的にも良くなかった。何よりも多くの先生方に迷惑をかけた。

結論から言えば、就職によって博論提出は明確に遅れた。筆者は社会人3年+専業院生2年9ヶ月で博士号までこぎつけたが、専業でずっとやっていれば理論的には4年弱で取れていたのではないかと思う*6。しかし、社会人をやっていたからこそ、メンタルやお金がもったとも言えるわけで、ここらへんはなんとも言えない。ただし、博士号が遅れること、あるいは満期退学が遅れることは、アカデミアポスト獲得という点では明確に不利ということだけは付記しておきたい。つまり、かじれるスネがあり、かつそれに良心の呵責がないのなら、社会人を経由することの直接的メリットはない。しかし、得難い経験を得るという間接的メリットはある。

文系院にて博士号を取るとはどういう経験で、そのメリットとはなにか?

ここでの文系院とは、先述したように筆者が経験した領域内においてのことなので、端的に言うと東大・社会学という括りの中でのものとなる。で、結論から言えば私が博論提出までに総体的に受けた指導とは、「学術的に価値がありながらも、商業出版にこぎつけられるだろうものを作る」という点であったように思う。

このような指導は、おそらく普遍的なものではない。分野によっては複数の査読論文をまとめただけのようなものが博論として通ることもあるし、そうでなくとも出版が前提として審査が行われることは稀だろう*7。その意味において、この指導は東大社会学の(一部の)特殊性を表しているわけだが、これは結果的には良かったと考えている。

というのも、先述したように筆者は査読論文で自らの調査結果をまとめるという作業を行ってきたものの、それを一つの体系だった大きな仕事に仕立て直すという点について、不十分だったからだ。いくらアイディアが素晴らしいものだとしても、それが全体のパッケージとして優れていなければ読んでもらえない。そして筆者の研究のモチベーションは、自らの研究は広く読まれるに値するものであるという点にあった。ゆえに、先述した自分の博士号取得動機を満たすうえで、この指導は非常に有益であった。自分で納得行く博士論文を最終的に出せたときに、筆者は今後もそこそこ長い本を、読者に向けて書くことができるようになったのだろうと実感した。

しばしばアカデミズムは「象牙の塔」と言われ、蔑まれる。しかし、歴史的に日本における社会学という領野は、常にアカデミズム外部に読者を求めてきたし、それによって自らの有用性を示そうとしてきた。社会学が真に有用なものであるかどうかは、内部にいる自分には最終的にはよくわからないところだ。しかし、このように異なる他者に対し、難しいことを多くの言葉を通じて届けるためのトレーニングを受ける場所として、私が所属した研究科は(多くの問題点はあると思うが)非常に良い場所であったのではないかと思う。

もちろん、「売らんかな、売らんかな」が良いわけではない。アカデミズムにおける「真理」の追求は、商業主義と必ずしも噛み合うわけではないだろう。ただ、だからといって独りよがりになってよいわけではなく、自らの主張は誰しもに理解可能な形で届けなければならない。私が博士課程で得た経験とは、その微妙なさじ加減を会得するものであった。

*1:ネットでよく見る、「院ロンダ」は嫌われるだの、文系修士は就職先に困るだのは、少なくとも社会学界隈だと全く当てはまらない。逆に、なぜあのようなエビデンスが十分にないように思える主張がある種の説得性を持つのか、という点は社会学的には興味深い

*2:筆者は鎌田慧の『自動車絶望工場』を高専時代から愛読しており、もともと労働環境のルポルタージュや潜入調査が好きという性向による

*3:たとえば、地方自治体と国がどのようなやり取りをしているのか、という点や、地域政策がどのようなフローで決定され、コンサルに仕事が流れてくるのか、などは「中の人」にならないとわからない。

*4:良く額を上げろという主張があるが、個人的には反対。それよりも合格者を増やしたほうが良いというのが自分の考え。

*5:東京以外なら、学振だけでやってけると思います

*6:こう書いた後に、まあそれでも早いほうだよな、とは思う。

*7:複数の論文をまとめたような本も多々あるが、弊研究科はそれを許してくれるような環境ではなかった。なので私の博論は、ほぼ全て描き下ろし。

博士論文「消費者の歴史社会学──近代日本における『消費者主権』の系譜」の内容要旨を公開します

※東大リポジトリの更新が遅いため、時限的に本ブログ内にて博士論文内容の要旨を公開します。ご笑覧ください。

約1年半かかりましたが、ようやくリポジトリで公開となったようです。リンクを張っておきます。

 

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/2008787

 

 

アレ★clubが発行する『アレ』vol.7に寄稿しました

*『アレ』の刊行番号を誤記しておりました。深くお詫び申し上げます(2019/11/27)。

査読論文に書けないことをいかにして書くか、そしてそれに意味はあるのか

標記の通り、アレ★club発行の『アレ』vol.7に「『委託社会』の存立構造――政策コンサルタントエートス分析から」を寄稿しました。一般書店やhontoでも購入できるようですので、皆様もしよろしければご購入検討ください。

 

さて、大学院生というものは、一般に査読論文を書く生き物とされています。最終的に博士論文を仕上げるために、ですね。そうなると、こういう同人誌ーーとはいえ本雑誌は一般書店で流通してますし、編集規模だけ見れば中小出版社と変わらないなというのがお付き合いした所感でしたが*1ーーに寄稿する意味って、何なのでしょうか。本記事はこれへの回答であり、言い換えるのならば、「なぜこの大事な時期に、一見『お遊び』に見えることをお前はしたのか」という問いに対し、回答を残しておこうという意図があります。

査読論文のスタイル

査読雑誌に投稿したかたであればわかるかと思いますが、査読論文には作法があります。それは、単に社会学評論スタイルガイドに従えばよいというものではありません。まず、先行研究に即した問いを発し、それを解決可能な問題に縮減し、その解決法を図示し、それに即して具体的な議論を行わなければなりません。これは別に私のやっているような歴史学的な社会学研究においても例外ではなくーーむしろその自由性の高いスタイルにより、一層このことは意識しなければならないように感じますーー、言い方を選ばないのであれば自分の調べたことを一定の「カタ」にはめ込む作業というのが、個人的な査読論文執筆の所感です。

もちろんこのことにはいい面もあります。というのも、このようにフォーマットが規定されることによって、リーダビリティが上がるからです。ポエムはうまい人が書くならともかく、下手くそが書いたそれは、いかに良いことが書いてあっても読むに堪えません。そのことを考えるならば、査読論文というフォーマットはアカデミアの発展のために必要不可欠なものと言えるでしょう。

しかしながら、同時にこのことは書ける対象が著しく狭まることを意味します。当たり前ですが、文字数の規定がある以上、大きなテーマを掲げることはできません。その時数で回収可能な小さなテーマに問題関心を分割しなければなりません。しかしながら、この作業は典型的な要素還元主義でして、実際には難しいところがある、というのが正直なところです(小さなテーマを集合させても大きなテーマほどに魅力ある問いにならない。結果的にトリビアルなものとなる)。もちろんそれはお前が下手くそだからだ、という回答もあるでしょうが、同時にこれは抱えているテーマにもよるなというのが、私の所感です。私の例で言えば、なぜ日本における「消費者」概念の変遷を研究すべきなのかを説明できたとしても、なぜ1930年代の消費組合運動の分析をしなければならないのかは、その対象からだけだと説明しづらいということです。

「書けないこと」を書くこと

そして査読論文にはもう一つの制約があります。それは、「事実」を書かなければならないということです。何を当たり前のことを、といわれるかもしれません。しかしこれが時として困難な問いを提示します。

たとえば今回、私は「政策コンサルタント」と呼ばれうる職種――私がかつて行っていた業務――の「エートス」を分析することを通じて、現代社会においてビジネスパーソンが繰り出す「責任」をめぐる説明、ないしは「能力」に対する価値判断を批判的に理解することを試みました。ですので、分析のスタイルとしてはいわゆる「エスノグラフィ」に近い手法を取っています。

しかしながら、一方で私は別にエスノグラフィをするために職場にいたわけではないですし、ノートを取っていたわけでもありません。当然秘密保持契約もあります。ですから、一般的な論文で見られるような手法、すなわちいつ頃の調査結果で、ちゃんと内諾を得ていて、文字起こした言葉には裏付けがあって、という形はとれないわけです。

さらにいうのならば、こうした方法論的問題は同時に書くべき対象の制限をも意味します。すなわち、私は記述の対象やその問題を特定の個人や組織に回収させたくはなかったのです。エートス」という一種古臭い単語を用いたのは、こうした対象設定に起因しています。言い換えるのならば、私が書きたかったのは特定の個人に立脚したミクロコスモスとしての企業社会のフィールドワーク結果ではなく、むしろそうした個人や企業には回収されえない、「コンサルタント」という職種に--あるいはホワイトカラー層に--付き物の心理構造であり、そしてそうした職種に頼らざるを得ない現代社会の病理の分析だったのです。

ですから、私は今回の寄稿文にて、本稿のエピソードを「事後的に再構成し、寓意的にまとめたもの」であると明言しています。この点を踏まえるならば、本稿の議論は査読論文としては「論外」であるといえるでしょう。それは「事実」ではないからです。取り上げられたエピソードは私が経験した複数のエピソードをまぜこぜにしたものであり、発話者の人物像は複数人から拝借したものであり、さらにエピソードの具体的な内容については完全に捨象しています。ですから、本稿を読んでも私が一体どういう業務をしていたのか、どういうプロジェクトをやっていたのかについてはおそらく良くわからないでしょう。しかしそれこそが本稿の主意であり、私が目指したのはそうした完全な捨象によってコンサルタントという職種に共通する一種の「やるせなさ」を強調した形で記述することでした。更に言うならばグレーバーが言うところの「全面的官僚制」とは、一部の政策コンサルタント集団に見られる現象ではなく、その語義通り全面化していることを主張するためには、エピソードのディティールはできるだけ透明化させなければならなかったのです。

論文と評論のあいだ:あるいはなぜ私たちは査読論文というフォーマットにとらわれるべきでないのかについて

その意味において、本稿はあくまでも現代社会に対する「評論」であって、「論文」――少なくとも査読論文のフォーマット――ではないでしょう。であるならば、私がこれを書いた意味とは何だったのでしょうか。よくあるありがちな二分法、すなわち「業績主義」と「自己実現主義」以外の道からこのことを説明することで、当初挙げた問に答えることとしましょう。

まず、私はまだ学者として「半人前」であるということを前提としましょう。ではなぜ「半人前」は論文以外を書くべきでないとされるのでしょうか。それは、まだ彼が「一人前」でないがゆえに、社会を分析し解説する能力に長けていないから、にもかかわらずそれによってちやほやされることによって、折角得かけた研究能力をふいにしかねないから、であると解釈できましょう。すなわち、問題は「シロウト」が適当なことをぶっこくというところに問題があるわけです。

しかしながら私はこの態度に--実のところ共感するところもある一方で--ある問題が共有されていると見ます。それは、学者を目指すものは対象を分析する作業を精緻化する努力をすべきであり、その問題関心を「論文」というフォーマットに落とし込まないといけないというものです。言い換えるのならば、そこには「評論」とは「論文」とは別様の知的営為であるという見方が存在しています。

しかしながら、果たして私たちが抱える問題意識は、「論文」というフォーマットのみで解決・説明可能なものなのでしょうか。そうであるとは思えないというのは前半部で述べたとおりです。物事には、論文で扱いやすいテーマとそうでないものがあります。しかしながら一方で、そうでないテーマについて考えることは、同時に研究領域に資するものでもあるように思われます。

例えば私が扱った「コンサルタント」という「高級」な職業を批判的視座かつ内在的に分析し、現代社会の評論に繋げるという手続きは、類義の議論も含め殆ど行われて来ていないように思います。それはなぜなのでしょうか。おそらくその分析が、「論文」というフォーマットに沿って分析することが困難だからです。対象層へのアクセスは一般に困難ですし、ましてやそれをエスノグラフィの対象とすることに許可が降りることは――少なくとも批判的文脈においては――まずないでしょう(ANT的な組織論研究だと言えば通るかもしれませんが)。「高級」な職業が内在的に分析されてこなかったこと、逆に「低級」とみなされがちな職業が社会学者の分析の対象となってきたことは、おそらくそのアクセス可能性によって説明できてしまうのではないでしょうか。

しかしながらそうであるのならば「論文」というフォーマットに拘ることは、世界を説明しつくそうとする際には不適合となることもあるのではないか?そしてそれは「高級」な職業が抱え持つ「権力」と結果的に和合し、彼らの持つ資源を見えないものとしてしまうのではないか?なぜならば彼らはそのデータのアクセシビリティを操作することによって、自らを分析の対象としないようにすることが結果的に可能なのだから。そして現代社会においてこうした「高級」な職業が批判にさらされ、その問題が指摘され続けている状況にもかかわらず、そうした傾向を止め、分析の対象とすることが「論文」というフォーマットにとどまる限り困難なのであるのならば、「論文」のスタイルから離れることも時としては重要なのではないだろうか?

こうした問題意識を、私はずっと抱えてきました。つまり、問題は知的営為の分断と「業績主義」が、却って現代的な問題関心から目をそむけさせてしまうという点にあるわけです。だからこそ、私は今回「評論」的な文体で『アレ』に寄稿を行ったのであり、「論文」ではない形でこの問題系に迫ろうとしました。これが、本稿が当初述べた「意地悪な」問いに対する答えでもあります。

ではそれが実際に達成されており、問題の分析は妥当なものと言えるのか?それは実際の論考をご覧いただければと思います。個人的には、損はさせない原稿になったと思ってますので。

*1:真面目な話、『アレ』の編集体制は今まで寄稿した査読・商業誌の中で一番手厚く、かつ丁寧なものでした。こうなると、商業誌と同人誌の区分ってもはや質の区分ではないなと感じます。

クラウドファンディングをやってみた感想:戦略・成果・今後の展望

私はクラウドファンディングをやってました

academist-cf.com

8月末から怒涛の忙しさで全く浮上出来ていなかったのですが、ようやくブログに手を出せる余裕ができたので、クラウドファンディングの総括について書いてみたいと思います。

 

なぜクラウドファンディングをやったのか?

 クラウドファンディングを実施した理由については、過去に述べました。

 

babibubebobobo.hatenadiary.jp

とはいえ、もう一回読み直すのもダルいでしょうから、その理由の概略を述べると、以下のとおりです。 

  1. 文系院生のキャリアラダーの特異性を示すために調査する
  2. 具体的には、非常勤ポストの不均衡分配が、個々人のキャリア育成に歪みを生んでいることを示したい
  3. この問題は今までほとんど議論されてきていないので、政策にも盛り込まれていない。そのため調査結果は最終的に調査提言に活かすこととしたい
  4. 上記観点から広報も重要なので、Tシャツ配布も含めたグッズ配布にも力を入れる

以上の観点より、とりあえずミニマムファンディング額である20万を目標として、クラウドファンディングを始めました。

クラウドファンディングの戦略

さて、クラウドファンディングというのは一種のBtoCビジネスです。つまり、潜在的消費者に対し、リターンという自社の商品がいかに優れているかを売り込むことによって、それに応じたファンドを頂くというのが、基本的流れだからです。今回のケースで言うのならば、「文系院生のキャリアラダーの調査」というパッケージを人々に訴求しなくてはいけません。まあ平たく言えばマーケティングが求められるということです。

とはいえ、一般的なサービスや消費財と異なる点もあり、そこがクラウドファンディングという「商材」の面白いところだったりします。違う点は以下の2つ。

クラファンに挑戦すると決めたときに、私はとりあえずacademist全体に上がっているクラウドファンディングの性質と、その金額についてざっと見てみました。その結果クラウドファンディングでのお金の集め方には、2パターンがあるということがわかりました。つまり、かたやバズ*1によって少額の金額を大量の方から集めるという手法、もう一つは、多額の金額を少数の方から集めるという手法です。

そしてここで気づいたのは、クラウドファンディングの投資可否はどうも往々にして商材であるリターンではなく、個々人の魅力に起因しているのではないか、ということでした。というのも、研究クラファンは、基本的にリターンがショボいのにも関わらず(当然ですが)、高額の金を集めているクラファンが多く見られたからです。それらのクラファンでは、やはり主催者が継続的にネット上で魅力的な活動をされている傾向が強かったです。

つまり、クラウドファンディングの資金が集まるかどうかは、リターンの魅力もさることながら、それと統合した形で適合的かつ魅力的な個人であることを、アピールすることが重要となります。単にページを作って公開するだけでは駄目で、いかに自分が出資するに値する人物かを示さないと駄目だということですね。

実は本クラウドファンディングでは当初調査を予定しておらず、Tシャツの配布のみを行う予定でした。では、なぜTシャツの配布をBOOTHのような販売代行サービスで行うのではなく、クラウドファンディングという形で行いたかったのかというと、クラウドファンディングで匿名の他者に配布できるようになれば、それによって、この行為を悪ふざけではなく、正当性を持った異議申し立てとして運用できるのではないかと考えたためです。クラウドファンディングのページを立ち上げるということは、それ自体が一種の運動性を帯びているわけですね。

正味な話、クラウドファンディングは運営会社に手数料を取られますから、リターンも勘案すると集金手段として考えた場合はそれほど割はよくありません。むしろ、クラウドファンディングサイトという特定のプラットフォームを介して、自らの活動が正当性を持ったものであるということをアピールし、クラファン成功によってさらに、それを後押しするという使い方が有意義なのではないかと思います。例えば、打越正之さんの本の執筆代を集めるという名目でのクラウドファンディングは、おそらく本の営業活動として考えると極めて有意義であったことでしょう。単にカネを集めるだけではなく、二次的三次的な波及効果にこそ、クラファンの旨味があるように思います。

camp-fire.jp

 

以上の特性を踏まえ、私は以下の2つの方向性を打ち出して活動することにしました。

クラウドファンディングのリターンを個人的魅力を元に強く打ち出す

私は残念がら20代後半のモサい男なので、いわゆる「セクシー」さでクラファンの価値を訴求することが出来ません*2。同様に、私と話したいという人がどれほどいるのやらという所感を当初より持っていました。

一方、私はおそらく同世代の一般人よりは料理が得意な自負がありますし、いろいろな料理や飲料とのペアリングを勉強してきました。また、諸事情によりホップの特性やビアスタイルの追求については相当に詳しいと思われます。そのため、1万円のリターンを「文系院生バー」の参加権とし、Twitterにも関連するツイートを多く掲載して、参加を募ったわけです。

 ただ、これは正直言って失敗しましたね。というのも、研究クラスタと料理クラスタは離れすぎていて、なかなかRTに結びつかなかったからです。1万円リターンを希望する人は結果的にかなり多かったですが、多くが私とそれなりに深い付き合いをしている方で、実際に私の料理なりなんなりを食べている人でした。その意味では広がりに欠けた印象です*3

また、Tシャツリターンも3000円とし、おそらく一般的なクラファンに比してかなり安い価格でのリターンとしたのですが*4、これも思ったよりは伸びずというところで、思ったよりもグッズの魅力では人は集まらず、基本的に研究クラファンはインプレッション数☓テーマの間口の広さ☓クラファン主催者のネット上での(良い意味での)知名度の掛け算で支援額が決まるなと痛感した次第です。

 

クラウドファンディングを周知のツールとして活かす

 一方、料理以外にもちょっと「バズ」を意識していくつか研究に関連するツイートをするよう、クラファン期間中は意識していたのですが、伸びるツイートがあっても、なかなかクラウドファンディングのクリックには結びつかず、周知にはつながらないという感じでした。

このツイートは、「ロスジェネ」☓「日本労働」ということで、研究クラスタイッタラーの心に触れる要素が多かったせいか、そこそこRTされ、インプレッション数も多かったですが、これが伸びている間にクラファンの金額はほとんど伸びませんでした。やはり、少しウザイでしょうが、純粋なクラファン参加のお願いを、SNS上で繰り返すしか道はないようです。

なお、今回当初の目標金額を20万とアカデミスト側の要望する最小金額としたのは、Web調査を主とする以上、それほど多くの金額を必要としないというのもあるのですが、どちらかというと戦略的に、「目標額を(知り合いブーストで)爆速で達成し、その後非知り合いの方からの少額ファンディングを募る」ということを狙ったためです。とっとと当初の目標額を満たし、「このファンディングは有望だ」ということがわかったほうが、お金が集まりやすいのではないかと考えたのですね。まあ結果から言うとどうも逆の効果があったのではないかと思わんでもないのですが、いずれにせよ失敗していたら目も当てられませんので、結果としてはこれで良かったかと思います。

いずれにせよ、今回色気を出してツイッターで色々実験をしてみましたがあまり結果は芳しいものとは言えず、最終的にクラウドファンディングで資金を集めるためには小手先ではなく、「リアルでの付き合いがある知り合いの数」が物を言うな、というのが所感でした。もちろん、これは私が弱小ツイッタラーだからであり、アルファがやればそれ相応に伸びる気もしますが、そこまでやるのは難しいですよねえ。

とはいえ、今回の活動を通じて多くの方とお知り合いになることが出来ましたし、今までお付き合いのない方からも多数の支援を頂けたということも、ここで明確にしておきたいと思います。

クラウドファンディングの成果

 いずれにせよ私の小細工はともかくとして、今回のクラウドファンディングでは述べ人数43名の方より、合計303631円の支援をいただくことが出来ました。まず、支援いただいた皆様に強く感謝の念を申し上げます。

それを踏まえた上で、今回のクラウドファンディングを通じた反省点を述べます。

  • より幅のある値付けを心がけるべきであった

今回はファンディング額の上限を1万円としましたが、もう少し上のレンジを引き上げる、すなわち3万円-5万円クラスのリターンを作っても良かったなと思います。まあこれは一種の「知り合い搾取」にもつながるので、なんともいえんのですが…

  • 日頃から交流網を広げるべきであった

残念ながらクラウドファンディングの金額の多寡は、概ねSNSのインプレッション数に比例するように思います*5。今回はクラウドファンデイング開始と同時期に実名Twitterを始めたのですが、もう少し前から種を撒いておけば良かったなと思いました。逆に、クラウドファンデイングをやるのならば、TwitterなりなんなりのSNSを用いて、個人の人格をよりアピールすることは必須であるように思われます。

  • もう少し幅の広いターゲットに訴求しうるテーマ名にすべきであった

今回は「人文社会系」と銘打ってクラファンをやったわけですが、これは取っ払って「若手研究者のキャリアラダー」と銘打ったほうが良かったかもなあと、終わったあと感じました。というのも、結局人文社会系の特殊性を分析するにしても、参照項としての他分野のデータを集めることは必須だからです。そのほうが、より間口が広がって、訴求する対象は広がっただろうなと。ただこうすると、資金は集まったかもしれませんが分析の工数は上がるので、キャパシティを踏まえるとなんとも難しい選択ですが…

クラウドファンディングを踏まえた今後の展望

実は今回のクラウドファンディングを募っていた段階で、ある団体とのコネクションが出来、本調査を中央官庁の委託調査の一環として実施できることとなりました。そのため、現状不確定要素は大きいですが、本調査の知見については、単に公表されるだけではなく、将来的な科学技術政策に生かされる可能性が出てきました。文系院生のキャリアラダーの特殊性を官僚サイドが認識できるようになれば、より良い施策が打たれる可能性は飛躍的に上昇するでしょう。

私は、かつてコンサルタントとして類似業務で生計を立てていたこともあるのですが、心の底から実施すべきだという調査に巡り合うことや、調査結果を正しいと自分が考える方向で報告することは今まで殆どありませんでした*6。その意味で、この帰結は私にとって非常に感慨深いですし、今回のクラウドファンディングは、単なる文系院生のガス抜きにとどまらず、社会問題の解決に繋がりうる方向にこの活動を動かしたという意味において、非常に有意義であったと思います。もっとも、調査はこれからなのですが。

というわけで、クラウドファンディングは金を集めて終わりではなく、金を集めてからがスタートだというのが、私にとって本活動を実施して得ることが出来た、最も大きい知見でした。皆様、今後とも応援ご支援よろしくお願いいたします。

*1:といっても、概ね日頃の努力の賜物のように見受けられましたが

*2:それが良いことだとも思いませんが

*3:やっぱモサイ男の作った飯とか誰も興味ないんですかねえ

*4:これは当初本クラファンがTシャツ配布を目的としていたことによっています

*5:大体関連ツイート1万インプレッションで15万が集まるといった感じでした。

*6:何故なかったのかという話は、近日掲載予定の論文に詳しく記載しております。