イベント概要
林凌 × 山本浩貴 × 植田将暉
瀬戸内海とはなにか
──批評・文学・日本の未来は〈四国〉にある
当日話す予定の内容をまとめているうちに、一種のマニフェストじみてきたので前もって公開します。興味ある人は視聴してね!
出る理由1:瀬戸内海帝国主義に棹さす
〈瀬戸内海未来主義〉のコンセプトを「ゲンロンy」で拝読した際に思ったのは、四国というスケールの功罪である。東京に住んでいると、四国というものは縁遠く、人によっては韓国や台湾よりも馴染みが薄い、一種の辺境である。しかし、四国に居住経験がある方であればわかるように、四国4県は人口流動から気候条件に至るまで、その多くが異なる。
筆者は、徳島県の県南部に小学校6年生まで居住している(その後中高は福岡県筑後地方→大学は京都→大学院以降は東京)。1991年生のため、私にとって見に覚えがあるのは1990年代後半から2000年代前半の、ちょうど明石海峡大橋と徳島道が開通し、孤立していた徳島が急速に道路ネットワークシステムに組み込まれた時期の徳島だ。
この時期、徳島にはまだローソンとサークルKしかコンビニは進出しておらず、映画館は県内になかった。ちょうどケーズデンキあたりの家電量販店が進出してきて、話題となっていたのを覚えている。イオンモールも存在せず、フジグラン北島というのが県内唯一の大型ショッピングモールであった。
私が7歳から12歳まで過ごしたのは、阿南市北部の横見という場所である。那賀川と桑野川という一級河川に挟まれた中洲であるこの場所は、本当によく河川が氾濫し、水没した。運の悪い年には年に二回ほど水没し、用水路と道と田んぼの境目がなくなり、一面が湖のようになる。そこに盛り土の上に立てられた家々がぽつんと浮かぶ様は、どことなくカンボジアの水上集落を彷彿とさせた。
目立つ建物といえば雇用促進住宅の団地があるだけの、この疎らな農村集落は、いま思えば中心市街地に水を流さないための遊水地としての役目を引き受けていたように思える。数年前、久しぶりにこの地を訪れた時。かつては子どもがそこそこいた雇用促進住宅内の公園は、ろくに管理もされずに草茫々で、40代近い男性が一人、黒いゴミ袋を膨らませてリフティングをしていた。通っていた集落唯一の商店は当然潰れていた。
私が上記の細々としたことを覚えているのは、子供の頃から地理オタクであったことに起因しているが、このように長々と列挙したのはほかでもない。おそらく、〈四国〉なるものの姿は、東京から遠いから気づきにくいが、この半世紀にわたって、あるいはその内部で大きくその姿を違えていた。
実際、河川氾濫という問題は、瀬戸内海ではなく、荒々しい太平洋に面した、南海の気候に起因しているだろう。徳島とは川の県であり、すべてのものは水に流され消えてしまう。だから、下水道普及率は今なお全国ダントツ最下位で、洗濯排水が用水路に流れ込んだあと、すぐさま田んぼになだれ込む風景が随所で見られる(なので、徳島平野部の米はまずい)。
あるいは、所属していた少年野球団で、中学生となった先輩が遊びに来た際に、彼らが「松山まで映画を見に行った」と自慢をしていたとき。前述したように、当時徳島県民にとって神戸はいわずもがな、高松や松山は都会そのものであったが、その感覚はこのチェーンストアの本格進出とECサイト利用が一般化する前のこの時代に、急遽高速道路網が形成されたことによっているだろう。
当時の徳島県は、徳島市を中心としたスケール配列が急激に壊れ、関西圏を中心とした都市システムの中に完全に組み込まれる最中にあった。その只中で、徳島で生きるというのは自らが辺境の民であるということを自覚することとほぼ同義だったのだ。
まとめると、〈瀬戸内海未来主義〉には一種の帝国主義、すなわち瀬戸内海と四国を同一視しようとする磁場が認められる。しかし、それは言ってしまえば〈四国〉に内在するヒエラルキー、すなわち香川と愛媛が偉く、徳島と高知は偉くないという立場を肯定するだけでなく、後者の存在を不可視化するものであるように思われる。特に、徳島は瀬戸内海と言っても良い県北部(鳴門-徳島)と、太平洋に面した真の辺境たる県南部(阿南-海陽・海南)では大分風景や気風が異なる。
この後者の姿は、瀬戸内海という概念を通じて四国を捉えようとするとき、不可視化されるものだろうか。あるいはそうではないのか。私の過去の経験は、果たして高松や松山で幼少期を過ごした方と類似のものなのか。
出る理由2:辺境の開発主義を問う
横見に住む前、私は阿南市の津乃峰という集落に住んでいた。この集落と南にある橘集落の間には、「よんでん」--四国電力のこと--と電源開発が開発した大規模火力発電所が存在する。私が通っていた津乃峰小学校からは、小山を挟んだ先に煙突がにょっきりと突き出している姿がよく見えた。小学校の教師が家庭参観の際に、以下のようなことを言ったことを覚えている。「今日は煙が出ていませんね。出ているときは壮観なんですが」。
津乃峰集落は典型的な漁村集落だが、この発電所立地によって開発が進んだ地域であった。立派な鉄筋コンクリート造のビジネスホテルが一軒あり、ここの一人息子とは、同級生であったこともあり、しばしば遊んだ。国道(といっても片道一車線だが)沿いにあるラーメン屋や、当時徳島では珍しかったTSUTAYAなどにはしばしば親に連れられ良く行ったが、今思えばそれらは、発電所従業員である独身男性のための施設だった。
さて、この発電所は四国の住民のためにのみあるのではない。特に2000年に運転開始した橘湾火力発電所は、中四国地方最大の火力発電所だが、その大部分は紀伊水道をわたって関西側で受電されている。つまり、それはいわば大都市圏に居住する人々のための施設なのであり、構造的には福一や柏崎刈羽と大差ない。私が上記の発言を聞いた時は、おそらくこの地が開発バブルに沸き立っていたはずで、教師の態度はいわば保護者に対するリップサービスだったのだろう。
現在、私は淡路島における地域開発史を研究しているが、その歴史を見ると過去この淡路島-徳島が、辺境として関西圏から絶えず開発の対象として理解されていたことがわかる。淡路島には過去、三菱商事と東燃ゼネラルによる大規模石油備蓄基地立地計画や火力発電所立地計画があったのだが、これは明石海峡大橋と鳴門大橋に石油パイプラインを通す計画と連動したものだった。また、この石油備蓄基地-パイプライン計画と同時期には、蒲生田岬--四国最東端の辺境中の辺境-ーへの原子力発電所の立地計画があった(なお、この立地予定地は隠れた海水浴スポットで、良く親に連れられて行っていた)。これらの計画はいずれも地元住民の反対運動やオイルショック・原発事故により頓挫したが、もしすべてが成立していれば今とは全く異なった景色となっていただろうことは疑いない。
辺境に住むということは、単に何らかのサービスや「文化」から疎外されているというだけでない。辺境とは中心との関係により絶えず規定されるものである以上、そこに生きるということは常に中心への隷属を意識することにほかならない。そしてこの隷属は、間違いなく中心やその近くの郊外に生きる人々にとって見えないもので、個人の卑屈さなどに還元されて解釈されるものだろう(東京で私はそうしたことを数多く経験してきた)。中心とは、辺境により支えられているということを等閑視できるという意味において中心なのである。高群逸枝の『東京は熱病にかかっている』における「いやな憎い東京、私は東京を侮蔑する」という一節は、このことを表していると私は考えているし、私が左翼的な議論にシンパシーがあるとしたら、この点を少しでも説明してくれるからである。
淡路島は瀬戸内海の中でも風光明媚な土地である一方で、この絶えず辺境としての立場を常に与えられてきた。また、徳島県南は二重の辺境であるがゆえに、NIMBY施設の押し付け先として機能してきた面がある。私が少し考えてみたいのは、この辺境の開発史を、〈瀬戸内海未来主義〉という観点からどう考え直せるか、という点である。
出る理由3:J社会学と批評の今後
私は人文地理学を学部時代に勉強した後、社会学を学ぶために東大の学際情報学府というところに進学した。ただ、ここに進学した理由の半分は山師根性であり、端的に言うと物書きとして「一発当てる」ことが念頭にあった。
ここまでの記述からもわかるように、筆者は常に自分の存在を辺境という概念と結びつけて捉えてきた。そして、学部時代に研究者の研究会にお邪魔させて頂くうちに何となくわかったのは、人文地理学とはどうも辺境だということである。そこには素晴らしい知があり、情熱的な営みがあり、鋭い批判がある。しかし、その言葉はサークルの内部で空転するばかりで、外部に広がることがない。その空転は、いつしかしょうもない言葉を紡いでいるだけなのに、ヘゲモニーを握っている分野への怒りに結びつく。そしてそれは2010年代前半の京都においては、「J社会学」と「ゼロ年代批評」に他ならなかった。
J社会学という言葉の良くわからなさは取り敢えず脇に置くとして*1、結局ここで問題となるのは、東京を中心とした情報産業の覇権である。今思えば2010年代前半というのは1980年代以降に形成され、1990年代に全盛期を迎えたアカデミックな出版商品がまだかろうじてその領地を保持していた時代であった。徳島や福岡、あるいは京都からすら遠く思えたのは、この出版社とマスコミがつくりだす流通網であり、前述した怒りは、そこから疎外されている状況で生み出される批判は無効化されているという感覚により生み出されていた。
特に当時筆者が主たる論敵として考えていたのは、東浩紀・北田暁大の『東京から考える』であった。その論旨は端的に言えば、郊外の多様性なるものを論じているあなた達の目線は東京中心主義にすぎるというものだったのだが、この敵意は内容そのものというより、今思えばどのような知が広がるかという情報システムに対するものだった。当たり前だが、『徳島から考える』という本が当時出版されるわけはないし、たとえされたとしても話題になるわけはない。「新進気鋭」の思想家と社会学者が、東京大都市圏の郊外部で生まれたという事実を基軸として展開される対談本が、何らかの意味で社会批評じみた体裁で売り出されうるのは、私たちの知が東京中心主義を内在しているからにほかならないだろう。筆者が、上記した批判をしてもなお、〈瀬戸内海未来主義〉に乗るべきだと考えるのは、この点と関係している。
さて、他分野からいきなり殴り込んだとしても、話を聞いてもらえるわけはない。特に興味深かったのは、筆者が仮想敵としていたような問題は、東大の中では既に過去のものとなっていたということだった。2000年代の修論を新書化した学生は、博論が書けなくなっており、あれではもう駄目だと噂され、古市憲寿についての隠喩めいた批判が酒席で頻出する状況において、筆者の問題意識はもはや意味を持たない。つまり、「あんなものがくだらない」ことはもはや前提だったし、指導教官である北田暁大も次の研究テーマに移ろうとしていた(そのうちの一つが、『社会にとって趣味とは何か』である)。私たちは出版市場に踊らされるのではなく、社会学をより経験的エビデンスに基づく学術領野として再編しなくてはならない--この空気は、2010年代の東大社会学の基調にあったように思うし、今でも続いているように思う。たとえば、相澤先生のエントリなどはその空気と関係したものとして理解できる。
この空気の中で書かれたのが私の博論本の『〈消費者〉の誕生』で、これは東大の歴史社会学・言説分析・概念分析の歴史を真正面から引き受けながら、〈消費者〉の思想史・歴史研究としても、専門家にある程度納得してもらえる実証性を兼ね備えることをその目標としていた。それが上手く行ったかどうかについては不安が残るが、結局自分のこの仕事は、当初の消費空間や消費社会に対する問題関心を維持しつつ、東大なるものに対しどの程度まで迎合するかについての自分なりの回答であった。と同時に、社会学を経験的研究領野として位置づける試みそれ自体について、筆者は基本的にこれまで批判的であったことはない。J社会学は死んだし、社会学と現代思想(批評)の接続も死んだと思っていた。
この流れが自分の中で変わるのが2024年。武蔵大に就職した後、本格的に学生さんの教育に携わるようになってからである。ポスト1968以降の日本の大学は、かつて絓秀実が『大衆教育社会批判序説』で論じたように、学生をお客様扱いすることで、成長を阻害するシステムをビルトインしているが、この中で筆者は自分の「売り」に悩まされることとなった。つまり、当たり前のことだが、これまで筆者が格闘してきた問題系などには誰も興味がなかったのである。1都3県の実家住みで、親戚に誰も第一次産業に関わっている人がいない学生さんたちにとって、四国に代表される日本の辺境が究極的に縁遠い存在なのはわかっていたが、東大や霞が関といった中央も、それと同じくらい縁遠いものとして捉えられていたのはいささかショックを受けた。私はこれまで、日本には辺境と中央しかないと思っていたのだが、実際にはその間に透明な膜に包まれた空間(郊外)が茫漠と広がっていることをこのとき真の意味で初めて理解し、同時に『東京から考える』が何を論じたかったのかがわかったような気がしたのだった。
しかし、学生消費者主義が全面的に浸透した現代日本の大学において、孤高を演じるわけにもいかない。どうすれば、自分の関心と学生さんの関心に折り合いがつくのか。この点で筆者が手を伸ばしたのが、J社会学と現代思想(批評)であったのは皮肉と言う他ない。つまり筆者は、かつて自分が論敵としたものを糧として学生さんを指導し、飯を食っているということとなる。リトルプレスを学生さんと一緒に作り、サブカルチャー批評の方法を教える。どうもこれは一種の金塊らしいということに、気づいたのは2025年の夏あたりだった。
と、同時にこれは一種の戸惑いをもたらすものでもあった。J社会学は死んだし、社会学と現代思想(批評)の接続も死んだのではないのか?かつて東大で笑われていたものを、なぜ自分は今復活させようとしているのか。そしてそれが、なぜ今一部の学生さんにとって、魅力的に見えているのか。
実際、この考えは筆者の完全な曲解というわけではないだろう。文フリの参加者がうなぎ登りで、三宅香帆が紅白歌合戦の審査員となり、日記がブームとなっている現代において、どうも何かかつて「現代思想(批評)」とされていたもの、あるいは「J社会学」に託されていたものは一時かもしれないが再び輝きを取り戻しつつある。しかし、その間に経験科学としての道を進み始めた社会学は、この流れに対応するツールを持っていない。では、この半世紀に社会学が辿った歴史で打ち捨てられようとしたものを、どうすればもう少しマシな形で拾い上げることができるのか。そしてそれは一体なにを意味するのか?
この夏に中央公論新社から出す、『〈消費〉という謎--終わらない「神話」を終わらせる(仮題)』という新書の隠れたテーマは、この点にある。本書は社会学と現代思想(批評)が、〈消費〉という問題系を、1980年代以降ずっと共有し続けてきており、それにより様々な問題が生じていることを「〇〇消費」の分析を通じて論じようとするもので、方法論としては東大歴史社会学の作法におおむね則っている。しかし、他方でそれは、私たちがこのように何かを語り、批評し、意味づけたいということの欲望が、〈消費〉を通じてどのような変形を加えられてきたのか、そしてその退屈な繰り返しからいかに脱出できるのかということを主題としており、この意味においては過去、J社会学が問題としてきたことを取り上げようともしている。つまり、それは過去精算されたとされる知的ゴミ箱から、何か役に立ちそうなものを探そうとする試みなのだ。
以上の議論からわかってもらえればと思うが、私にとって〈瀬戸内海〉や〈四国〉を考えるということと、社会学や批評の今後を考えるということは、いささかグニャグニャはしているのだが、明確に繋がっている。当日はこの観点から、今まで述べてきたことをもとに議論を展開したいと考えているので、是非とも聞いて頂けると幸いである。
*1:なお、J社会学という言葉が、こうした酒席で使われていたかと言えば、基本的にNOであったと思う。この言葉の初出は管見の限り2013年の宇野常寛による古市へのインタビュー記事における古市発言なので、もしかしたら2010年代の駒場で流行っていた言葉なのかもしれない。筆者は基本的に当時は本郷と学環の人としかつるんでなかったので、ここらへんはよくわからない。ここでは、1980年代以降の出版市場に最適化された、スター研究者の社会学的研究や書籍のことを指すと考えてもらえれば良い














